「健やかなる時も、病める時も…」
皆さんも一度は耳にしたことがあるのではないかと思われるこのフレーズ。
ドラマのワンシーンやご友人の結婚式の際などに耳にされているのではないでしょうか?
そう、このフレーズは結婚式の際に「誓い」として宣言する言葉ですよね。
今回は、この誓いの言葉について書かせていただきたいと思います。
私はかつて写真館で働いていました。
毎週、週末といえば集合写真やスナップ写真の撮影をさせていただくため、機材やひな壇を背負って式場に向かっていました。
挙式も、神前式・チャペル式・人前式とスタイルも現代では多種多様ですが、チャペルでの挙式に入っていた時に感じたエピソードをお話させていただきます。
とある日のチャペル式。
集合写真やスナップは室外での撮影でした。
参列者の方に立っていただくための集合写真用のひな壇を組み立て、リハーサルなどの進行状況を確認するために式場に入りました。
祭壇の前には、ご新郎様とご新婦様、そして神父様。
ちょうど誓いの言葉を交わすシーンでした。
多くの場合、お二人の宣言の前に、神父様が次のように問いかけます。
「汝、その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
この誓いの言葉を聞いて、私はふと気づいたのです。
私は戸籍上は女性で生まれましたが、性別異和があるためにドレスを着ての結婚式をあげるという未来を想像したことがありませんでした。
ドレスや会場といった様式的なものへの憧れや、私自身に状況を当てはめることはありませんでしたが、何度も耳にするこの誓いの言葉が胸に刺さりました。
それは、この誓いの言葉の「これ」に入る言葉が相手ではなく「私」だということ。
そして、この誓いの言葉は本来は相手に向けて誓い、見守る参列者の皆さんの前で宣言しますが、根底に「私は私を愛してはいないけど、あなたが私を愛してね」というような思いであれば宣言は難しいのではないかとも思いました。
「ああ、自分に足りないのは自分自身への誓い、信頼だ」
そう感じました。
当時の私は自己嫌悪がとても強く、自分自身も自分の未来も、始まる前から自己否定。
健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、迷うことなく自己否定(苦笑)
自分を愛しているとは、お世辞にも言えませんでした。
そんな私だからこそ
「この誓いの言葉は、まずは自分自身に向けなくてはならないな」
「自分に誓えない人は、愛する人にも誓うことは難しいよな…」
「ましてや自分が愛していないものを人に愛してもらうのは難しいよな…」
そう思いました。
そして、誓いの言葉の本当の問いかけは
「どんな時も、どんな状況でも、自分のこと(これ)を見捨てないか?」
ではないかと感じました。
その頃の私は、病んでいるとき=調子の良くないときの自分も、良い時の自分も、愛することも、敬うことも、慰めることも、助けることも放棄していました。
そればかりか「自分を愛すること、慰めること、助けることは、弱さの象徴」だと思っていて、自分を見捨てることが日常の中で当たり前になっていました。
実際には、自分の弱さを受け入れることや自分を助けることは弱さではなく、愛なのです。
そして、自分を受け入れ、愛するということは、決して簡単なことではありません。
自己嫌悪・自己否定・劣等感など、自分を否定する感情を感じようとすれば、どこまでも感じることができます。
だからこそ、自己否定をやめること、自分を愛することを選択すること、自分の意思を持って自分に対して宣言するということは、とても大切なことなのではないかと感じました。
なにより自分に誓うことや約束をするということは、自己肯定や自己実現の上でもとても大切なことです。
自分に対して誓いの言葉を向けるということは「自分を応援し続ける」と誓うことでもあります。
そして、応援してくれる人たちの前で誓いをたてることで、応援される力を受け、さらに強くなれるのです。
2025年の4月に、新社会人としてスタートされる方や、人生の節目を迎える方もいらっしゃるかと思います。
誓うということは、決めること。
そして、自分を信頼すること。
新たな一歩を踏み出す際に、誓いや宣言から始めると、あなたの夢に近づくことができるかもしれません。
皆さんの誓いを、そして人生を、心から応援しています。