僕がカウンセラーとしてデビューして間もない頃、あるクライアントさんとお話しているときに「ああ、それは寂しいですよね・・・」って答えていた僕がいました。
確か恋愛に関する相談のご依頼で、彼氏につれなくされてる女の子のカウンセリングでした。
彼女がしくしく泣き出す声を聞きながら、そのとき「ん?」と気付いた僕がいました。
「寂しい」ってどんな気持ちだったっけ?
彼女のお話を聞いていれば感覚的に「そこまでされたら寂しくなるだろうなあ。無理ないよなあ」と思ったのですが、その「寂しい」って気持ちそのものが僕には分からなかった、感じられなかったんです。
そのカウンセリングが終わった後、しばらく考え込んでしまいました。
「うーん、寂しさ・・・。どんな感情だったっけ・・・?うーん。なんで分からないんだろう・・・?」と。
でも、僕たちのベースにしている心理学/カウンセリングは「実践派」ですので、早速寂しくなるような状況をイメージしてみました。
「理加が突然家を出て行って、連絡が取れなくなって、それを友達に相談したら素っ気ない返事を返されて、慌てて彼女の実家に駆けつけると彼女のお母さんに冷たい顔をされて、一人とぼとぼ淀川を歩く・・・」なんて風に。
そのときの僕の心の反応は「・・・」。
本当にしーんと静まり返っていたのでした。
最初は僕は両親にとっても愛されたので、寂しさって感情を知らないんじゃないか?って思いました。
うちの母親としたらまるで映画に出てくる欧米人の母親のように愛情表現が豊かで、子どもを愛することを自分の生きがいのようにしている人ですし、父親もシャイながら息子と遊ぶ時間、一緒にいる時間をたくさん作ってくれていましたから、寂しさを感じたことが無かったんかな?と。
でも、感覚的に「寂しいですよね」って答えられるってことは、僕が寂しさを知らないわけではないんですよね(僕たちの感覚、直感的なものは潜在意識や無意識からの反応なのです)。
でも、それが感じられないということは、僕の心が麻痺してるって証なんです。
そのくらいは当時の僕にも理解できましたが、その現実は僕にたっぷり冷や汗をかくに十分だったようです。
寂しさって誰もが感じられるような当たり前の感情って思ってたし、僕も当然その感情を感じられるって思い込んでいましたからね。めっちゃ焦りました。
そこで、僕は今までの自分を振り返ってみました。
僕はとってもプライドが高くて、負けず嫌いで、人に弱みを見せるなんてことは死んでも嫌だ、と思ってました。
常にトップクラスにいるのが当たり前で、だから人に心を開くよりも、人をいかに屈服させるか?なんてことを考えていました。
当然、今から思えば自分に対しては相当厳しい態度を取っていたと思います。
(もちろん、そればっかりではないけどね(笑))
だから、今から思えば全身がちがちに鎧を着こんで人を寄せ付けないようにしてたんです。
しかも理屈っぽくもあったので、まるでその鎧にハリネズミのようなトゲをつんつんと生やしていたようなものだったと思います。
僕は大学時代に故郷を離れて大阪にやってきたのですが、誰も知り合いのいない土地で、ハリネズミの鎧を着込んでいたわけですから、彼女と一部の友達以外とは全く付き合いができず、一人か彼女と二人でいる時間が長かったんです。
高校時代の僕にしても、バンド仲間はいたものの練習時間やバイトの時間を除けばほとんど付き合いもなく、家にいたり、一人で街をぶらぶらする孤独な少年でした。
なんせ、当時の僕のモットーは好きだったギタリストにちなんで「孤高」でしたから、一人でいることが辛いこととか、寂しいことなんて思わなかったんですよね。
だから、一人で街に出て仲良さそうなカップルやグループを見ても「ふんっ!」と軽蔑してたりしました。
うーん。嫌な奴ですね・・・。
そんな状況を思い出したとき、「めっちゃ、寂しさ感じてたんちゃうん?」って思いっきりツッコミを入れたくなりました。
今から思えばえらく強がって、つっぱっていたんやなあ、と思います。
だって、その当時は見ない振りをしてただけで、えらく嫉妬もしていたし、自己嫌悪も強かったですもの。
僕は人見知りで、恥かしがりやでもあったので、なかなか人と打ち解けられなかったんです。
それにおとなしい性格でもあったので、話題が合わないときなどはずーっと黙っていることも多く、当然、そんな自分を忌み嫌ってました。
でも、その自己嫌悪している自分もまたプライドが許さなかったので、結果的に「孤独を愛する」とか「孤高」とか言って強がるしかなかったんですね。
いわば、寂しさを感じてる自分を許せなかったんだと思います。
そう思ったときに「ずーっと寂しかったんやなあ」って我ながらほろっとなったもんです。
なんか、悲しいなあ、と。
そして、それに気付いたときにその当時周りにいてくれた人みんなに思わず感謝してしまいました。
そんなハリネズミな僕の側にいて笑ってくれてありがとう、と。
だって僕だったらそんな奴の近くにいたくなかったですからね(苦笑)。
ただ、その後はしばらく大変でした。
この事件(?)をきっかけに僕が長年隠していた寂しさが噴出してしまったんですね。
「寂しさを感じても良い」って許しが出て、堰が切れたようになってしまいました。
どこにいても寂しくて仕方がなくなってしまったんです。
彼女とはずっとくっついていたくなったし、寒気がしてたくさんの人で包んでもらいたいから毎月のヒーリングワーク(グループセラピー)が待ち遠しくて仕方がなかったし、自己嫌悪がひっくり返ってナルシストになってしまったし、そんな忙しさに「やっぱ、やめときゃよかった・・・」なんて思ってました。
でも、同時に僕は本当に大きな事、人の大切さをこのとき初めて学んだような気がしました。
僕はずっと一人で生きてたような気がしたけど、僕が口にするもの、身につけているもの、すべて誰かのお陰で成り立ってるものなんですよね。
学生時代までは親の、それ以後は僕を雇い入れてくれた会社の人たちの存在や、日常を支えてくれる恋人や友達の存在、そのすべての微妙な繋がりがあるから僕は今ここにいられるんだなあ、と気付いたんです。
それは当たり前のことでは全然なくて、「親だから」「労働力を提供してるから」って理由だけでは成り立たない何かがそこにあるんですね。
それは僕にとってはほんとに大きなパラダイム転換でした。
心理学では「寂しさとは、人をつなげるための大切な糸」なんて表現をします。
もし寂しさって感情が僕たちの心に無かったとしたら、誰も人を求めなくなって人間は子孫を作ることもできずに滅んでしまう・・・と。そこまでは大げさかもしれないけど、あながち嘘ではないなあ、とかつて孤独を愛していた(振りをしていた)僕は思います。
寂しくなかったら人を求める事、人との繋がりを欲する事もないですよね。
一人で生きられるって思ってしまいます。
あなたがもし、寂しさを感じるとしたら、それは今誰かに感謝をするときかもしれません。そして、誰かとのつながりをもう一度感じ、そして、自分からその繋がりを得ようと行動するときかもしれません。
その後の僕は100人以上の友人を結婚式にご招待し、年末には数百枚の年賀状を書いて、数少ない休みの日には誰と遊ぼうか頭を悩まし、毎週いろんな人が訪れてくれる家に住んでいます。
これは本当に嬉しい事で、有難い事です。
そして、僕は「めっちゃ寂しがり屋やねん」って笑って言えるようになりました。
根本裕幸