ある友人と久しぶりに会い、とことんしゃべりたおした後、
「結局人間、バカになるしかないんじゃないか?」という結論に至り、なぜか私は妙に納得感を感じながら、
その友人を玄関から見送っていました。
なぜ、バカになるしかないのかというと、”真面目に生きたって所詮世の中こんなもん”なのではなく、
あらゆることを思い悩み、考え、試行錯誤し、葛藤して、たとえ何年心理学を学んでいたとしても、
その理論も、方法論も、考え方でさえも、結局は自分を追い詰めるものにしかならずに、ただただその場にじぃ〜っと居続けるはめに陥ってしまう・・・”どんなに賢くなったって所詮苦より楽なのよ”だからです。
真面目に、そしてひたむきに、自らの悩みに立ち向かう事は、ある意味”真剣”勝負。
それが人様のものであるなら尚のこと、です。
でも、”深刻”であってはなかなか前に進めないのです。
「こんなこと、人から見れば大したことじゃないのかもしれませんが・・・」
いえいえ、他人から見てどうなのか?は、悩みや痛みには関係がありません。
肝心なのは、自分がどう感じているのか?だからです。
でも、
「私にとっては、とっても重大なことなんです!!私はひどく傷ついているんです!!」
いえいえ、それを他人にわからせようとはしなくてもいいんです。
自分自身の傷が”深刻”な状態である事を、”真剣”に訴えたとしても、それはその深刻さにとっては、なんの得にも助けにもなりません。
私たちはよく、この深刻さと、真剣さを取り違えてしまいます。
「お金が無い・・・」
深刻な問題です。
切実な問題です。
そこで、「お金が全然無い・・・一体どうすりゃいいんだ?」と、いくら深刻になっても、一向にその問題が解決される事はあり得ないし、それどころかどんどん気分が沈んでいくだけで、重〜く暗〜くなってしまうだけです。
でも、「お金が無いぞ・・・一体どうすりゃお金が入ってくるんだ?」と、真剣にこの問題に取り組んでみると、なにかしらの答やひらめきや感覚がやってくるもの。
単純に言うと、深刻なときには必ず自分以外の誰かのせいにしているし、真剣なときには他の誰をも気にしていなかったりします。
それが深刻なのかどうかは、自分自身が決めること、そして深刻なままでいるのか、真剣になるのかもまた、自分自身が決めていいことです。
どうして「バカ」って、「馬鹿」って書くのかしら?と思い、そこに勝手に私なりの理由をつけてみました。
それは、”馬なのか鹿なのかも見分けられないくらい、なにかに夢中熱中している状態”。
そう、バカになるしかないという諦めにも似た私たちの結論は、今以上に真剣に生きる、ということでもありました。
それも、”楽しく”です。
というより、みなさんこんな経験はありませんか?
真剣になればなるほど、そしてそれが情熱的であればあるほど、笑いがこみ上げてくる。
とことん、そこに自分の全てを注げば、フッと水面から空中に出た時のような開放感がやってきます。
深刻は苦しいけれど、真剣は楽しいものです。
源河 はるみ