私の親しい友人の”甥っ子”に、多動症(注意欠陥多動症候群/障害とか、ADHDとか言います)の子がいます。
なんでも普通の保育園に通う事ができないらしい。
じっとしていることが出来なくて、ひとりで家を飛び出しては誰かに連れられてくる・・・なんてこともしょっちゅうあるそうで。。。
親や、身内であるその友人は慣れてはいるものの、それはそれは大変そうです。
うちにも遊びにきましたが、ほんとにじっとしていない・・・
そのことに感心していると、これでおとなしいほうだと言う。
でも、よくよく聞いていると、昔子供の頃遊んでいた従兄弟はみんな、この”甥っ子”と同じだったし、
主人に話すと、「俺もまったく同じだった」と言う。
つい最近、主人の実家におよばれに行ったとき、遊びに来ていた義父の弟親子と子供の頃の話に花が咲きました。
父親の世代は、親を早くに亡くし、たくさんいる兄弟同士で支えあって生きてきたんだという。
主人とその妹さんの話になったとき、その義父が一言、
「コイツ(主人)は、ほんまに悪いヤツやった・・・」
ほろ酔い加減の、なんとも言えない”間”があった後、やっと「なんでやねん!」と主人のツッコミが入りました。
本当に悪い子ちゃんだったらしい・・・
一昔前は「悪い子ちゃん」、それが今では「多動症」。
知識のなさとも、無教養ともとれますが、同じひとつの物事も時間が経つにつれて捉え方が変わっていくんだということを目の当りにしました。
こんなこと、数え出したらきりがないほどたくさんありますが、ふと違和感も感じたんですね。
そういえば、私も子供の頃、越した先の田舎で”アトピー”だったんですが理解してもらえず、ただただ気持ち悪がられて嫌な思いをしたものでした。
親が、新聞で「これはアトピーなんだ」と気付いたそうですが、世間に認知されるまでには時間が必要ですよね。
様々な研究がなされ、報告され、対応されるために役立てられているんだろうとは思います。
多動症も、大人になるにつれて症状は軽減し、ほとんどが普通に社会に適応できていくらしいのですが、はてこの先、こんな”症状名”がどれほど増えていくんだろう?と疑問に思うこともあります。
どうしてこんなことが気になりだしたのか?というと、ご相談くださる方の中には多く、「私、○○症だと言われたんですが・・・」とか、「鬱なんですが、治りますか?」というご質問を寄せてくださるのはもとより、
知人がある書籍を読んで「私、どう考えてもADD(注意欠陥障害)やねん」 と言い出すのを聞いて、
「あぁ〜、みんな多かれ少なかれそうなのよぉ〜」と、思わず叫びたくなったからです。
核家族社会になって久しいですが、どうしても正々堂々とそれでも社会の中に関わっていこうとするとき、その症状たちは、症状ではなくなるような気がしてなりません。
もちろん、そうできないから苦しいし、ひとりで悩んでしまう・・・なんて悪循環な社会を作ってきたのかしらと落胆もしてしまう。
関わりが少ないから不安になる材料は増え、「な〜んだお宅もそうなの?」と思えるだけで救われる気持ちがどれほど多く存在しているか知れません。
主人は言います。
「俺の周りはみんなそんな(多動な)ヤツばっかりやった」
少し違っていたり、変わっていたりすることを隠すのではなく、逆に思いっきり出そうとすることで、
身内に驚かれるぐらいたくさんの友人に囲まれていたり、楽しく過ごすことができたりするのかもしれない。
”フォレストガンプ”や、最近見た”アイ・アム・サム”(IQが7歳児の知的障害の父と、それを追い越して成長してく娘のお話し)の中には、そんなことが語られているような気がしました。
”みんな一緒”共通しているところを見つけ出す事は、そんなに難しいことではありません。
”あなたらしさ”は、共通しているところを知らなければ、逆に見えてこないものなのかもしれませんね。
さんざん周りに「変」と、今も言われ続けている私ですが、”な〜んだ一緒やん!”これで気分はとっても楽になるものです。
源河はるみ