毎週のように週末のミーティングの後、原や山本、妻を始め仲間達と飲みに出かけます。
最近は閉店時間が1時とか2時の店をわざと選ぶんです。
なぜかというと、閉店時間=解散時間なので、朝の5時までやってる店にいくと、やっぱり5時まで飲んでしまって翌日(というか当日)に大いに差し支えてしまうんですね。
ストレスが溜まってるってこともあるのかもしれないけれど、そうして気の置けない仲間とわいわい飲むのはめちゃくちゃ楽しいし、話も尽きないから、気がつけばお店のスタッフがやってきて「そろそろ閉店なのですが・・・」と言われる始末です。
他愛ない話題も多いのですが、何と言っても将来の夢や野望、今考えてることを語り合うのは体中の細胞が喜びまくるくらい大好きなんですね。
僕は幸いずっと人との出会いには恵まれてると思ってるのですが、実際にそんな“朝までトーク”は高校時代からその時々の友と続いている習慣です。
大学院の頃には、何度も語り合いを繰り返した親友と1対1で“24時間トーク”なるものを企画して、ファミレスを転々として、へろへろになりながら24時間語り合いを続けたこともありました。
(←アホですね〜)
そんな親友達の一人に高校の頃からずっとそんな語り合いを続けてきた奴がいました。
彼とはお互いに「こいつと俺とは性格がまったく違う」と堅く信じながらも、お互いを良く知る友人の中には「こいつら、ほんまに良く似てる」と言う奴もいる不思議な関係だったんです。
ただ、お互いに思ってたのは、パズルの隣り合ったピースのような関係だったということ。
形は違うけれど、そこに描かれている図柄は繋がっているような。
そして、その図柄というのは、やっぱり将来の夢やビジョンで、「いつか一緒に何かをやろう」ということでした。
「こいつと何か始めたら絶対面白いことができる」とお互いに確信はしてました。
それまでは別々の道で、それぞれのやり方で色んな世界を見ておこうと約束してました。
それは会社を起こすことだったり、政治家になることだったり、ガキだった分、夢は大きかったです。
(まあ、今でも僕はアホなビジョンを追い続けているのかもしれないけど)
彼はいわゆる美丈夫で、常に付き合っている女性が複数いるようなプレイボーイ君でした。
大阪や神戸によく彼女連れで遊びに来てましたけどいつも違う女の子を連れてましたね。
(僕はいつも同じ女の子と一緒だったけど)
それでも、女の子にはもちろん、同性にもとても好かれるタイプでした。
行動も大胆かつ繊細に計算していて、例えば、婚約者の家に行ったときにわざと靴を脱ぎ散らかしてあがり、帰りにきちんと揃えているかどうかで、その家の躾や教養を見極めようとしたこともありました。
(嫌な奴でしょ?)
その一方で、どこで繋がっているのか学生の身分であちこちの土地の名士と付き合いがあったり不思議な人徳があったものです。
そんな一方で「松葉ガニのいいのをもらったから、明日持って行くわ。鍋しようぜ」と突然電話をかけてきて、朝早くバイクで日本海側の町を出発したらしいのですが、「福知山で右に曲がって大阪に向かうはずが、なぜか気がついたら舞鶴まであと5kmとかいう看板が出てきておかしーなーと思ってたんよ。でも、間違いないと思ってそのまま行ったら日本海でさー、まいった、まいった」と、3,4時間で着くはずのところを10時間以上かけて届けてくれたこともありました。
ま、どこか抜けてて周りの人をちょっと心配させて面倒見させてしまう不思議な魅力があったのでしょう。(そんな奴の魅力を認めるのは今でも悔しいからちょっと嫌なんです(笑))
そんな彼がある夜電話をかけてきたんです。
「俺なあ、色々がんばってんけどなあ、あかんかもしれへんわ」と蚊の泣くような声でした。
ちょうど卒業が間近に迫った頃で、彼が論文に苦しんでるのは知っていましたが、なかなか連絡も取れずにいたところです。
「明日実家に戻るつもり」というから、「ほんなら、うちに寄ってしばらく遊ぼーや」というと「そうやな。そうしようかな」と言って電話は切れました。
次の朝、セミナーに出かけるために準備をしているとまた電話が鳴ったんです。
彼のお母さんからでした。
「根本君は無事卒業して就職が決まったのよね?どんなところに行くの?」と世間話をし始めるのですが、ちょっと様子がおかしい。
すると「あの子ね。今朝、亡くなったの。」と。
「朝早くね、友達(それは彼女でしたが)が尋ねて来てくれて見つけてくれたんだけど、寝巻きのまま、近くにあった紐で。とりあえず、誰かに言わなきゃいけないと思って根本君に電話したんだけど、あの子の友達に伝えてくれないかしら・・・」
淡々とした声でした。
その声の調子に乗ってしまったのか、僕の中でも「あ、そうなのか・・・」と思っただけでした。
そのまま何人かの繋がりのある友達に電話をかけて、でも、みんな留守電だったので(朝早いからね)、そのことを伝えてセミナーに出かけたんです。
その道すがら、何故か奴が近くにいて、ふーっと僕の心の中にちょこんと収まったような感覚を覚えました。
奴は今、ここにいるのか・・・と漠然と思ったことを今もはっきり覚えています。
それは新大阪のとある牛丼屋さんの前でした。
僕自身、そのときは悲しいとか寂しいとかの感情ってほどんと感じていなかったと思います。
ただ、その週末がセミナーだったということが災い?幸い?して、今までに味わったことのないくらい強烈な感情を体験したんですけどね。
体がばらばらに破裂しそうなくらいのものでした。
今ならば、強烈過ぎる喪失感だったり、分離感だったり、と分析はできるけど、当時はひよっこで、訳もわからず、その感情に翻弄されていました。
でも、涙はほとんど出ませんでしたね。
悲しみを感じられるほどに心の準備が出来ていなかったのでしょう。
辛い経験をされた方は体験されたことがあると思いますが、心の防衛機能が働いてヒューズが飛んだように何も感じられなくなってしまっていたんです。
(だから、セミナーなどでその感情に触れると無意識的な反応として上のような感覚が出てくるんです)
それはお葬式の間も、その後もしばらく続きました。
仲の良かった友達はみんな「なんでやねん・・・」と悔しさをにじませて号泣してました。
ずっと。
僕はただ、彼らを抱きしめることしかできませんでした。
「言ってくれたら良かったのに」
「なんで、俺らに電話してくれなかったんだ」
「俺はどうして、あいつがそんなに苦しんでいることに気付けなかったんだ」
「奴が苦しんでる間、俺はのうのうと生きてた。悔しすぎるわ」
そして、大好きだった奴の死をみんな理解しようとしていたんです。
考えて考えて自分なりに理解できなければ、それぞれもまた破壊の道を選びそうになっていたからかもしれません。
お葬式が終わっても、一晩中、奴のことを語り合いました。
理解するために、忘れないために。
でも、最後は「何で、死んだんだよ・・・」というところで詰まって涙するだけでした。
僕は相変わらずすっかり麻痺していました。
「お前はやっぱり強いな」と口々に色んな連れが声をかけてくれたけど、強かったわけじゃなくて、何も感じられなかっただけなんですよ。
お葬式の前に、ご両親に挨拶に行き、冷たくなった奴に会わせていただきました。
何も言えなかったです。
悔しすぎて。
無力過ぎて。
そして、それはご両親や弟たちももっとずっと強く感じていたようでした。
奴のお父さんはただ息子を理解しようとしてました。
「しんどかったんやな?これでもう楽になったんか。ごめんな」と声をずっとかけていました。
お母さんは、能面のような表情をされて、ずっと押し黙っていました。
言葉には決してしないけど「この子がこんなになってしまったのは私のせい」とものすごく自分を責めていらっしゃるのが痛すぎるほど伝わってきました。
事実、お母さんが「あの子がこうなったのは私のせい」と言い、泣き叫んだのはそれから数週間を待たなければなりませんでした。
彼はお母さんとうまくいってなかったようで、常々愛された記憶が全然無いと言ってました。
でも、その彼の言葉は真実じゃなかったようです。
それに気付けずに奴は死んでしまったんやな・・・と思いました。
きっと今頃真実に気付いて後悔の一つでもしてるんやろか・・・とも。
お葬式に向かう前、うちの母が厳しい表情をしてこう言ってました。
「息子をこんな形で亡くした母親の顔をよく見てきなさい」と。
きっとうちの母も僕らが仲良かっただけに他人事ではなかったのでしょう。
それから大阪に戻った僕は、しばらく死神に憑かれているような生活でした。
夜が怖くて眠れないんですね。
目を瞑ると自分が死の淵に引きずり込まれそうな感覚がして。
だから、電気とテレビを点けっぱなしにしてました。
眠れないから、と、初めて精神安定剤を飲んだのもこのときです。
そして、僕はその死から1ヶ月以上経った頃からようやく彼の死と向き合うことができるようになっていました。
その頃は会社の研修で横浜にいて、ウィークリーマンションに泊まっていたんです。
そこで毎晩、一人で泣きながら、奴の死を理解しようとしていました。
気がつけば、巨大な喪失感と無力感が僕自身を覆っていたんです。
何故なのか?
死とは何か?
奴はどこへ行ったのか?
自分は何を見逃したのか?
休みの日には横浜の街をあちこち歩きながら、そのことをずっと考えていました。
その中で僕なりに見つけた答えがいくつかありました。
死について、彼について。
それはおかしな話だけれど、彼の死を知った朝に体験したものに由来しました。
「そっか・・・、奴は今ここにいるのか・・・」
そして、自分の心の中に奴の居場所を作り、奴が知らず知らずに教えてくれていた色々なことを自分なりに学び始めました。
そのせいか、その後は僕もプレイボーイになったり、色んな悪知恵を働かせるようになったりしました。
これは今の僕にとっても強烈な原体験になっています。
死を、特に自ら選ぶ死を僕は決して美徳とは思いません。
自分も死にたくなった時期がその後に何度もやってきたけれど、本当に死のうと思ったことは一度もありません。
でも、現実としてそれを選んでしまった奴がいるから、その死を無駄にしないように今も一緒に生きようと思っています。
下手なことをしたら、奴が僕をバカにして笑ってる声が聞こえます。
それは悔しいから、またそこで一歩頑張ることができます。
めちゃくちゃしんどい時には、奴が応援してくれているような気がします。
それに何度も救われました。
そして、いつかは二人でしたかったことの一部でも実現させたいと思うのです。
その後、数年して、心の中の応援者に僕の父親も加わることとなりました。
今でもその二人は強力な援助者として僕の中で生きています。
残された者として、その使命を継ぐとかそんなかっこいいものではなく、ただ、彼らの存在に今日も支えられて僕は、生きています。
根本裕幸