もう随分前になりますが、「国際児童年」だったかがあり、そのキャンペーンソングが、GodiegoのBeautiful Nameと言う曲でした。
今日も子供たちは小さな手を広げて…という始まりでとても楽しい曲です。
タイトルの意味は、美しい名前と言ってしまえばそのまんまなのですが、どんな子供にも一人ずつ一つ名前があり、そこにこめられた親や周りの人たちの愛情、子供たちに向けられる温かい目を歌った曲です。
私が小学校2年のとき、国語の授業で自分の名前について調べたことがありました。
両親や祖父母につけてもらっていたり、偉いお坊さんや家族が世話になった人につけてもらっていたり、誰かの名前の一部をもらっていたり。どこかの地名が由来だったり、季節のお花からもらっていたりと。漢字を使っている名前だったら辞書を引いて漢字の意味にこめられている親の願いなんかを感じてみたり、そういうことから周りの愛情を感じる、というのが目的だったのかもしれません。でも、子供心に何だかすっきりしないものがありました。
そのときはそれが何だったのか、わかりませんでした。
もう少し成長して、色んな本を読むようになりました。
何を読んだかわからないくらい、もう手当たり次第に「活字」を読んでいたようなころもありました。
その中で、「赤毛のアン」と「足長おじさん」の話を読んだ時に、この2年生の授業を思い出していました。
読んだことがある方はおわかりかと思いますが、アンも、足長おじさんの主人公のジュディも今で言う「児童養護施設」の出身者です。
アンとジュディの違いは、アンは両親に名前をもらったことがはっきりわかっていたこと、ジュディは施設の職員に姓もつけてもらっていたこと。Abbot(アボット)…アルファベット順で確か名簿か何かの一番初めにあった名前がジュディの苗字になった、というエピソードがあったと思います。
このことはジュディにとっては決して楽しい出来事ではなかったんですね。
この感覚が、2年生の国語の授業のときの「すっきりしない」感覚とどうもくっついていたのではないか、と思ったんです。
色んな事情で子供と一緒にいられない親。親の愛情を「知らずに育った」子供。でも、この世に自分を送り出してくれた親と、近くにいて見守ってくれた人は、必ずいるんですよね。名簿の順番から選んでつけたのだとしても、そこに愛情があるかどうか。そういうことだと思うんです。
名前。漢字でほんの何文字か。アルファベットでもそう長くはありません。でも、この短い文字の中に、本当に色んなお話があります。
名前についてのエピソードを探ってみたら、決してすてきなことばかりが出てくるとは限りません。でも、自分自身の歴史でもあります。
ハンドルネーム、ペンネーム、ニックネーム、芸名など。自分で名前をつける機会もありますね。どんなことを考えてつけますか。今のあなた自身の名前は好きですか?子供の時から使っている名前をつけてくれた人は誰ですか?そこにはどんな思いがあったのでしょうか。何もないかもしれません。ただ、かわいいから、とか、この子に似合いそうだから、とか、何番目の子供だから、とか。
今、何て呼ばれていますか。それは苗字でしょうか。ニックネームのような呼び名でしょうか。誰にどう呼ばれていますか?特別な呼び方をしてくれるのは、あなたにとってどんな人なのでしょう。
毎日見慣れた自分の名前。そこにある様々な思いに、触れてみる機会を作ってみてはどうでしょう。忘れていたような、子供の頃の思いが甦ってくるかも知れませんよ。
中村ともみ