●原風景

 下町育ちの私には今ではあまり見られなくなった風景が、「原風景」となっていることがあります。
例えば路地裏でござやシートをしいておままごとをしたり、蝋石(ろうせき)を使って陣取りや、縄跳び、かくれんぼ、缶蹴り…ということをよく見かけました。
たいてい家の前には舗装されていない道路があり、車が入ってくることもなく、とてもよい遊び場になっていました。
おやつの時間には誰かのお母さんが声をかけてくれたり、差し入れ?をしてくれたり。夕飯が近くなると食事の支度をする匂いが流れてきて、「〇〇ちゃんご飯よ〜」と声がかかるまで遊びほうける。子供の仕事は遊ぶこと、と言われた時代でした。
 
ところが、外で遊んでいる子供を見かけることが減ったと言われて久しいと思います、本当に子供の声が聞こえることが少なくなりました。
マンションが増え敷地内に公園などがる、と言うようなこともあるのでしょうが、リュックや手提げを持った子供たちが送迎バスに乗り込んだり、時には駅前のファーストフード店にかたまっていたり、おもちゃ屋の店頭でゲームに興じていたり、と言う姿をよく見るように感じます。
外で遊んでいるのは、ベビーカーを押した若い母親と、乳幼児。地域ごとにある公園に親子で出かけていき、砂場や滑り台で遊ぶ子供たちを見守りながら、お母さんたちはお喋りを楽しんでいる、と言う図はどこででも見られ、「公園デビュー」という流行語までできました。
  
私には思春期真っ只中の二人の息子がいますが、彼らが幼い頃にもそういえばそんなことがあったように思います。
あったように思う、というのは私は仕事をもっていたので日中子供たちは保育所のお世話になっていたからなんです。
帰宅すると、「公園組」がマンションのエントランスに列をなし、保育所から子供と大荷物(着替え後の衣服や使用済みのタオルが主な中身なんですが)を抱えた私たちを迎えてくれます。
何となく…面映いような、気が引けるような。そんな思いで「花道」をすり抜けエレベーターに乗ったものです。
 子育てをしていると色んなわからないことが出てきます。
病気や怪我のときはもちろん、歩くのがどうとか、お喋りがどうの、字が読める、数が数えられる、夜寝ないんだけど、オムツがとれなくて…etc.そんな時、初心者ママの頼りは育児雑誌。ちょっぴり頭でっかちになってしまったりします。
昔のように家におばあちゃんがいる家が減って核家族化し、急な子供の発熱などに慌てて救急車を呼んだ、と言う話も少なくありません。そんなとき、公園で知り合ったネットワークが役に立っていることがあるのじゃないかな。私のように「保育所組」にもネットワークがあり、残業などで迎えにいけないときは友達に頼んだり、病気の情報が入ったり、と。お母さん、と言う人種は子供を通したネットワーク、というものを一つ持っているな、って最近また思っています。
  
息子がまだ歩けない頃からの付き合いだから、かれこれ10数年になる友人がいます。
先日久しぶりに電話で話したのですが、子供を通して始まったお付き合いが今では親友です。
子供が宝物、っていうのはこういうことかもね、なんて話もしました。
私と彼女の場合は、うまくいっているケースです。
家族ぐるみでもよく遊び、まさに「遠くの親戚より…」と言う感覚。子供同士も、小学校から別々ですがとっても仲が良いんですね。家族で集まって食事をするとき、ご主人と私がグラス片手に話し込んだり、と言うことも。
 でも、こんなケースばかりではありません。毎日のこと、近い距離だからこそ起こるトラブルもまた、よく聞きます。
「どこそこのだれそれちゃんが平仮名を読めた」「〇〇さんちでは英語を習わせている」…。こんな会話が始まりだすと、我が子とよその子の違いが気になります。
もともと、数年前には赤ちゃんでみんな同じような状態だったのに、成長に伴って個性が芽生えだしたら、できること、できないこととして気になることが増えてくるように思います。
そして、よその子のできることが出来ないと「うちの子は遅れているのでは」「どこか具合が悪いのでは」と思ってしまいあせってしまうと言うことが往々にしておこり、お母さん自身の問題のように抱え込んでしまう、と言ったことが少なくないように思います。
すごく狭い範囲で考えてしまうような感じです。
 もちろん、私たちにもこんな幼子であった時代があり、思春期を通過して今の生活があります。
そんな観点で見てみるのも一つの方法かもしれないな。私は3歳のときから長い間入院生活を送っていたらしいです。
らしい、と言うのは記憶が無いからなんですね。でも記憶が皆無なわけではなく、断片的なことは覚えているのですが、事柄よりも感覚、感情を通して本当の出来事に加え追体験、というようなことが多いかもしれません。これは私に限ったことではないでしょうね。
 
 こういった子供の頃の記憶(追体験やイメージも含んで)が人生観、価値観、世界観…にまで影響があるといったら言いすぎだと思いますか?私たちが心理学を学び現場で使うとき、こういったことがとても役に立ちます。
時によってはその誤った思い込みを「書き直す」ような作業の必要もあります。
いろんな出来事で心が傷ついていると感じることがありますが、たとえばその原因が「誰かの心無い一言」だったとして、実はその「心無い一言」は愛から出ていると感じられたとしたら…。
 
 人の記憶と言うものは案外いい加減なものです。
自分の中ではこうだ、と信じきっていた思い出が他の誰かの話と混じってしまっていたり、ある一部分だけがやけに鮮明だったり。ましてや子供のころの頭(心)の中は混沌としています。
強烈なインパクトだけが残されてしまっていることも。でも、つらい思い出として残っていることが実は「愛から出たこと」だと知ってしまったら、これまでの私の人生を返せ〜〜〜なんていう気持ちになるかもしれません。
 
中村ともみ

この記事を書いたカウンセラー

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