僕たち人間がつらくなっているとき、必ずと言っていいほど、僕た
ちの中で分離している何かがあります。
分離感は「さびしさ」という形で現れる以外にも「嫌われている」
「愛されていない」という形でも現れます。
あらゆる分離感は愛とつながりで、癒すことができますが、あまり
にもこの分離感と長く一緒にいすぎたため、僕たちはこれを本当に
扱いあぐねています。
そんなときに、「もうどうしたらいいかわからない」と感じるわけ
ですね。
でも、僕たち人間は、そこでいつもがんばっています。
どうやってこの分離感を払拭しようとしているのでしょうか?
「自分は魅力のないだめなやつだから、もっと魅力的になる必要が
ある。」
そう思って必要以上に自分に鞭を打ち、もっとがんばらなくちゃと
感じてしまうときがあります。
もちろん、がんばることはとてもいいことですが、なんのためにが
んばっているかとか、なぜがんばるのか?というところでは、チェ
ックが必要になります。
もし、「誰かに愛されるため」ならば、そのがんばりは、報われた
ようにはあまり感じません。
なぜなら、がんばらなくても愛してくれる人は、僕たち人間には必
ずと言っていいほど、いるからです。
たくさんの方のお話を聞いてきましたが、そういう「愛してくれる
誰か」がいなかったことは、まずありません。
皆さんのお話を聞いていて、本当にそういう人が誰もいないと僕が
感じたときは、僕がその最初の人になりますから、やっぱり、僕が
お話を聞いた人の中には、「愛してくれる誰か」がいない人はいま
せん。
だから、愛されるために自分に鞭を打つというのはあんまり意味が
無いわけです。
また、自分の価値を認められたとき、初めてこの分離感を感じない
ですむようになるから、やっぱりがんばるということもあります。
でも、人間の価値とはもともとあるもので、がんばることで得るの
ではなく、高めるものですから、がんばればがんばるほど、価値を
高めることはできても、得ることはできません。
価値を得るには、あなたの中の価値に気づいていく、という作業が
必要です。
それは自分に鞭打ってすることではありません。
もうお気づきの方もいるかもしれませんが、分離感はがんばって埋
め合わせるものではありません。
自分を慈しみ、人も慈しんでいくことで払拭していくことができる
のです。
なんだか心理学の話ではないような感じですが、いくら分析しても
分離感は「愛情がない」状態ですから、結局は「愛」の話になって
しまいますね。
でも、僕たち人間は、この分離感を埋め合わせるためにがんばりす
ぎているのかもしれません。
だから、「愛」が必要だと感じたとき、また、「愛し愛されるため」
にがんばってうまくいかなかった度合いだけ、僕たちはみんな、
「愛し愛されること」=「苦労すること」
と感じています。
でも、当然それは誤解です。
「愛」とは「繋がり」であり、繋がりは別に苦労をしなくても強く
することも出来れば、新しく作ることもできます。
それは、ほんのちょっとした変化で作ることができます。
もし、あなたが変わりたいと感じたら。
そのほんのちょっとした変化がどこでいるのだろうか?
と思ってみてください。
今のあなたを否定する必要などありません。
否定すればするほど、自分はだめだと、自分に鞭を打てば打つほど
どんどん愛と繋がりからは遠ざかります。
本当はたくさんある、あなたの中の、「誰かを愛している偉大な自
分」、探してみませんか?
田村厚志