●調和(ハーモニー)〜〜〜あるコンサートに寄せて〜〜〜

私は子供の頃からの音楽好きで、どんなに環境が整っていなくても、どないかして音楽を身近におこうとして来た、と思う。
子供の頃、怪我が元で動きにくい時期があり、そんな私のために両親が3オクターブくらいの電池式の小さなオルガンを買ってくれたのがそもそもの始まり。見よう見真似と聴いた(聴こえた)歌…童謡などをそのまま弾いていたのを親ばかな母が聴き、近所にピアノのうまい高校生のお姉ちゃんを見つけ、まんまと私のピアノの師匠にした。
その先生は当時16歳、もちろん私が一番弟子(ちなみに私の弟が2番弟子)。今度はスタンド式のちょっとこましなオルガンを買ってくれ、バイエルなどを始めた。その先生の見立てでは私は音感に優れているらしく、楽典も小さい頃から始めてくれた。ちなみに、その先生は腕を買われ、見る間に弟子を増やした。その後、音大に進み結果的に音楽を生業とするきっかけをうちの母が作ったことになった。
しかし、しかし。私はピアノが確かに好きだ、好きな曲を弾くのは、とても好きだ。機会は減ったがそれは今も変わらない。でも面白くないと思ったことには関心を示さず、困った生徒?になっていったと思うがこの先生は若いのに(年が10違うだけだった、つまり8歳の頃先生は18歳)はっきり物を言う人だった。
「あなたはピアノを楽しむのは良いけれど、仕事にするのは考えない方が良い。」と私の妹弟子にあたる女の子に実にきっぱりと言ったのが、今思うと二十歳くらいだったと思う。
そして、私については持っているもの(親からもらった耳や指先のタッチ、表現力など)について高い評価をしてもらった…にも関わらず、一番練習嫌いの生徒であった(…与えられているものをうまく受け取れない、の原点の一つのような気がする…猛省)。
 しかし、三つ子の魂百まで…とはよく言ったもので、気にいった曲はどんなに現時点での自分の実力と遠くても、弾こうとするのだった。そして、そう言うときの私の本番での出来は普段の日の120%と言っても過言ではないかもしれない、とちょっと遠いところから見て思ったりする。そして、私の先生はそんな私を上手にその気にさせてくれた。弾きたい曲のためなら練習には出来る限り時間を割いていた、と思う、母親の、「普段からそれくらい練習したらどれほどうまくなるやろ」と言うお小言のような嘆きのような呟きを背に。
友達は、だれそれさんがあの曲が弾けたから私も弾いてみたい、と言うように自発的にやっていく人もいれば、自分の技術をあげるためにこつこつと練習を重ねたりしている中、私はただ弾きたい曲を弾くためにピアノの前に座る。
 
 両親、特に父はそんな私に過酷なリクエストをする。「石原裕次郎の『赤いハンカチ』を弾け」の、「クリスマスやから『ジングルベル』を弾け」のとのたまう。しぶしぶピアノに向かい、聴き覚えで鍵盤をたたき左手はほんまに適当に伴奏をつける、どうせ間違っても父にはわからないだろう、と思っていたかどうかは今となれば覚えていないけれど。まあ、成長してからはこの「特技?」が自分を楽しませたり、YMCAで子供に関わるボランティアをしていた時代にはクリスマス会には欠かせない賛美歌を弾くことになり、思いもかけず役に立つことになる。この頃になると、「弾く」ことがただ楽しみになっている。
こんな私、音楽の範囲・ジャンルは広いが偏りがあるのは否めない。仕方がない、こんな性格やから、と自嘲気味に思う今日この頃である(笑)。
関心のある音楽の幅が広い、と言うことは聴きたいものがたくさんある、と言うことでもある。で、この数年はクラシックのコンサートに行く事も。数年前に行った、大フィルのコンサートでは井上道義さんがタクトを振ったが、これがまた素敵にかっこよかった…。数日後、体調を壊し職場を休んで「徹子の部屋」を見ていたら、たまたま井上氏が出演しており、今日は休むべくして休んだのだ。これぞ運命的…と己の罪悪感を払拭するネタにしたのだった。
そんな私の趣味を知っている某友人が先日、「今日の○時○○分頃から辻久子さんのヴァイオリンのコンサートがあるけど来ない?」と悪の誘いをしてきた。
 
 これはとある医学系の学会の市民フォーラムの行事の一環で、友人は職務上?その学会に参加しており、会場を闊歩している時にコンサートがあることに気づいたと言う。もちろん、乗らない手はない。実家での用事があったのだがそそくさと済ませ、母を車で送り、着替えて会場へ向かった。あいにく、こうべ祭りと重なり車の流れが悪く、1曲目が既に始まった頃にホールに着いたら、2階席に案内をされた。ところが、である。2階席とは言うものの、辻さんの指までもが見える一番ステージよりの端の席だった。そう言えば、ライブハウスに通いつめていた頃にもいつも順番どおりにもかかわらず、良い席が当たることが多かった。
きっと神様は私の日ごろの行いをよくご存知に違いない、とちょっと思った。(こうして時折自分の運の良さを思ったりする。)
ところが、である。ヴァイオリンの伴奏のはずのピアノの音がやたらに目立つ。席のせいか?グランドピアノの蓋が開きすぎているのか?会場の音響か?と思っていたら、1曲目が終わると辻さんが下がり、続いてピアノ奏者、譜面をめくる人(どういう呼び名か知らない)も後に続いた。すぐにステージに戻ってこられ演奏を始めたが、今度は前ほどピアノが目立たなくなった。フォーラムの一環なので、コンサートは1時間ほど。曲数は7曲とアンコール曲。長くはないが、聴き応えのある演奏だった。辻さん所有のヴァイオリンに纏わる逸話は有名だが、辻さんとヴァイオリン、と言うより本当に体の一部のようだった。ヴァイオリンに愛情を…などと言う言葉も似つかわしくないくらい、辻さんの体の一部になっていた。
コンサートが進むにつれヴァイオリンに添うようなピアノの音色は、控えめでありながら却って存在感を感じた。
そう言えば、たまにカウンセリングにも使う江藤俊哉さん・玲子さんの「G線上のアリア」のハーモニーがとても好きだ。ヴァイオリンに寄り添うようなピアノが優しい。かと思うと、ピアノを引き立たせるようにヴァイオリンが控えめになる。とてもバランスが良く、私には聴き心地がとてもよい。
音楽とは調和(ハーモニー)がないと個々の演奏がすばらしくても打ち消し合い、融けあって一つの作品をなすと言うよりむしろ、自己主張のぶつけ合いのようになってしまう。ジャンルを問わず、バンドやオーケストラでもそうなのだろう。
 音楽を聴く時、主旋律以外のパートに耳を傾けることが良くある。どんな楽器がんな風に主旋律に絡むか、時には控えめに時には競り合うように…。裏打ち(半テンポ遅いタイミングのリズム)が効果的に絡んでいるな。低音域の楽器が主旋律を奏でるときの奥行き感。弦楽器のカウンターメロディー(主旋律と絡む旋律)の美しさ。おそらく譜面を見ると各セクションは味気ない音を鳴らしているだけの時も少なくないと思う。でも楽器と楽器、奏者と奏者がまさに心を合わせて奏でて初めて「音楽」になる。どれ一つを欠いても、物足りない演奏になるのに違いない。
チームで仕事をすることがよくあった。各自に振り分けられるのは単純作業であったり、複雑な資料の整理であったりする。こだわりたい内容があったり、それでも全体でのバランスを考えたら削らざるを得ないものもあったり、イレギュラーな事態が起こったり。でも、何をしたいのか、どんなものを作りたいのかをはっきりとわかっていたら、エネルギーをそちらに注ぐことができる。
仕上がりは、時にはパッチワークのようであっても、むしろ一点もののオリジナルの味わいを愛しく思ったりする。
 私にとって学校での仕事は、そう言う趣を感じる媒体でもあったな、と20年を振り返り思う。
どのセクションも主役。どの人も、主役。目的は美しい音楽を創ること、ただ一つ。そう思えば休符だらけの楽譜も、目立つ旋律も、すべてがピース(かけら)に過ぎない、とも思う。そうして育んだものが、人の心に触れてゆき、それぞれの胸の中に湧き上がる新しい想いが、実は作品の最後の仕上げなのかもしれない、と思う。
辻久子さんのコンサートでは、その演奏の技術的・芸術的なすばらしさを超えて「辻さんとヴァイオリン」の生き様の大切なひと時にご一緒しているように思えた。
 
 うまくは言えないが、辻さんの人生の流れの中の一時に聴衆があり、聴衆や他の演奏者、コンサートやフォーラムの運営に関わった人々のそれぞれの人生の中にこの演奏がある。無理やり言葉にする
とこんな感じである。ちなみに、私を誘ってくれた友人は、隣の席で心地よく無意識と戯れていたようだ。そう、それでいいのだと思う、人それぞれで。睡魔、いや無意識と戯れる友人もまた、辻さんの人生の一コマのピースなんである。
うまい表現が見つからないが、たとえば神様がいるとして、遠くから私たちがかもし出すハーモニーを、美しい音楽のように楽しんでいるとしたら。こんなふうに同じ音楽を違った楽しみ方をする私たちも切り取った一場面のようだったりするのかもしれない。でも、私たち自身は、それぞれが自分を精一杯生きている。それぞれの人生を芸術作品のように大切に生きている。だれかが(例えそれが神様であっても)そのことをどう見ようとお構いなしに。でも、「今ここ」に集っていること自体に目的や意味があることだってある。
その時は、トータルのバランスを考えるのも必要な事なのかもしれない。誰のためでなく、ただ自分の存在自体が、ハーモニーをなすのに欠かせない要因であることだってある。
辻久子さんのすばらしい演奏は、私の心にいつもあって、普段は知らない顔をしていたそんな想いに触れた。すばらしい音楽や絵は心の中のささやかなセンサーに反応して、あふれ出すきっかけになることを、本当に久しぶりに思い出すことができた。
今年はもっとコンサートや美術館に出かけたいな。で、その世界にその時間だけでもどっぷり浸かってみたい。
 ああ〜考えるだけでも幸せ〜な私(^^♪
中村 ともみのプロフィールヘ>>>

この記事を書いたカウンセラー

About Author

退会しました。