最近、「やさしさ」について思いを巡らせることが多いんです。
もともとのきっかけは、奥さんや家族や友達や仲間などにもっとやさしくしてあげたい、ということでした。
「やさしくしてあげるって、何をすればいいの?」という素朴な疑問から始まったのですが、「そもそも『やさしさ』って何?」という、とっても広くて深い謎に辿り着いてしまったのです。
そこで、自分の中にある「やさしさ」を探ってみました。
すると、
・望みを叶えてあげること
・責めないこと
・許してあげること
・怒らないこと
というのが出てきました。
僕は、これらのことをする時に「やさしくしている」と感じて、そして、これらのことをしてもらった時に、相手の人を「やさしいな」と感じているようです。
そして、何かをすることが「やさしさ」だと思っているようです。
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そんな僕に、「やさしさ」について大きな変化がありました。
先日、言うことを聞かなくて約束を守らなかった甥っ子(5歳)を怒ったことがあったんです。
僕はそれまで今まで一度も怒ったことがなかったんですね。
まだまだ小さな子供ですし、できるだけ自由でいて欲しかったので、ワガママを言おうが、人の話を聞いてなかろうが、それを責めず、怒らず、許して、甥っ子のやりたいようにさせてあげていたんです。
ところが、今回は、言うことを聞かなくて約束を守らなかったことを、敢えて怒ったんです。
怒ってあげることがやさしさだと思ったんです。
「もしここで僕が怒らなければ、甥っ子は将来もっと怒られてもっと痛い目に遭う」
「だから、今怒ってあげた方がいい」
そう思ったんです。
実際に怒って、甥っ子がすごく怖がって自分の世界に引きこもっているのを見ていると、すごく嫌な気分になりました。
おそらく、僕以上に甥っ子は嫌な気分になって、怖れと痛みで一杯だったでしょう。
それもわかっていた上でやったのですが、自分がやったことに自信が持てません。
「やっぱり俺ってやさしくないな」と思いました。
ただ甥っ子を無駄に怖がらせて無駄に傷つけてしまっただけではないかと不安と迷いで一杯になりました。
少し落ち着いてからこの出来事を振り返ってみると、「怒る」という表現方法はベストではなかったかもしれないけれど、すごくヘタクソなやり方だけど、あの時怒ったことは、僕のやさしさだと思います。
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この出来事は僕の中に大きな変化と気づきをもたらせてくれました。
○今までのやさしさの概念が大きく変わった
今まで自分が怒られたり厳しくされて「やさしいなー」と感じることもなければ、
自分が怒ったり厳しくしたりすることでやさしさを表現することはありませんでした。
やさしさにはいろんな種類、いろんな形があるようです。
望みを叶えてあげるのも「やさしさ」ならば、望みを叶えてあげないのも「やさしさ」。
甘やかすのも「やさしさ」ならば、厳しくするのも「やさしさ」。
何かをしてあげない「やさしさ」もあれば、何かをしてあげても「やさしさじゃないもの」もある。
いろんな種類、いろんな形があるようですが、全てのものに共通しているのが
「その人のためになるなら」
「その人の幸せにつながるなら」
という、「その人のために向けられた想い」であるということです。
これがやさしさの正体のようです。
○今まで僕に与えられていたやさしさを感じて受け取ることができた
甥っ子を怒ったことで、それをすることがどれだけ気分の悪いことなのかが、嫌というほどよく分かりました。
今まで見えなかったり気づかなかったりしたけど、親や先生や学校の先輩や会社の上司などは、そんなに嫌な気分になってまで、嫌われ役や憎まれ役を買って出てまで、それだけ大きなやさしさを僕に与えてくれていました。
今更ながら感謝の気持ちと、そこまでして伝えてくれたその人達への尊敬の思いで一杯です。
○やさしさは、与えた分だけやってくる。
僕が、多くの人のいろんな形のやさしさを感じて受け取れたのは、僕がそれを人に与えたからなんだと思います。
心理学の格言で「与えた分だけ受け取れる」「受け取る分だけ与えられる」というものがありますが、まさにこれを身をもって経験しました。
与えた結果として帰って来たものを見てみると、あの時甥っ子を怒ったのは、やはり僕の「やさしさ」のようでした。
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というわけで、僕の中では「その人の幸せを願う、純粋な想い」というのが本当のやさしさである、ということに落ち着きました。
だから、種類や形にこだわるのではなく、受け取ってもらいやすい表現、分かりやすい表現という方にエネルギーを注ごうと思います。
この長文を最後まで読んでくださった、あなたの「やさしさ」に感謝いたしますm(u_u)m