先日、友人の(といっても、うちのカウンセラー)元の職場である盲学校の文化祭に誘われ、何の気なしに足を踏み入れた‘学校’。
中学生の頃まではいわゆる「ビン底めがね」をかけ、親と先生と私の3者面談では担任の先生から‘本当に問題ないお子さんですから’と言わしめ、時折は学級委員などもしていました。
ですが、高校に入学してからは見る影もないほど机に向かわなくなり、挙句の果てには教科によっては担任に呼び出され「頼むから、勉強してくれ…」と頭を抱えられた経験も。
一旦は収まるかのように見えた私の反抗期ですが、本人の意図とは無関係にさらに社会人になってから激しくなっていきカイシャの中では言うこときかないっぷりを仲の良い後輩からよく指摘され「うえにしさん、もうちょっと頑固なのどうにかしたらもう少し得できるのに…」と心配までしてもらっていました。
こんな中途半端な反抗期を引きずった私が‘学校’という空間に足を踏み入れた瞬間に感じたのは自分の中にある‘学校’や‘先生’に対する懐かしさも混じった不思議な想い。授業中先生の目を盗み友達に手紙を書いているような、ちょっと‘エライ’人たちから背を向けているような軽い罪悪感や緊張、気恥ずかしさ、でも背筋がシャンと伸びたような神聖さ。そういったちょっぴり苦くてノスタルジックな感覚が体を通り抜けるようでした。
実は思わず「外で待ってる…」って言い出したかった瞬間です。
彼女が元の同僚に挨拶をしたり、可愛がっていた職員さんや生徒さんなんでしょうか、声をかけ談笑している横でそわそわしている私を気遣い、講堂で行っている生徒さんと先生の発表会を見に連れて行ってくれました。
そこで初めに見たのは生徒さんのバンド演奏。音楽にはかなり疎い私ですが、「この子が来たときにはこういう状態でね…」と目頭を熱くし子供さんの様子を愛情深く語る友人の解説もあいまって、また、本当に好きでやってる!という感じが伝わってきて自分の緊張もすっかり溶け、引き込まれていきました。
以前、勤めていた会社で最後の2年半担当したのは、実務経験がない職種の研修担当。新人研修が主だったのですが、まず、新入社員の子達の学歴が半端じゃないんですね。最高学府の院卒…なんてのも混じってたり。ちょっとヤカラな営業職出身の私としてはまず出てくるのは‘舐められたらどうしよう’、同じチームの方たちは実務経験がないことをかなり理解しカバーしてくださいましたが、他のチームの方たちはまず‘分からない貴女に何を言っても仕方がない’‘新人扱うにしても全く期待していないから’という態度。
で、まずはそのチームや研修の過去の書類全てに目を通し流れを把握すること、そして自分の劣等感を処理すること…が第一の仕事になりました。
「やったことがない仕事」劣等感の処理をどうしたか、なんですけど、まずは自分が誰からどういう影響を受け今の仕事のスタンスになったのか、自分にできること得意なこと、相手のできること得意なことは何かを事細かに分析していきました。
そうすると、人と協力すると出来ることや、出来ることやってきたことの中から方向性や目的を変えると使える技能や考え方もあったり。
そして研修という仕事のモチベートの元を探って行った時に出てきたのは私の場合は人から受けた恩(愛、ですかね)と乗り越えたい、という想い。
鍵になった言葉、たくさんあるんですけど一つは「分からないことが何かが分かってたら、問題ってのは解決できるねん。だから分からないこと責めてもしゃーないねんで。ほんまに人に教えたり理解してもらいたかったりするんやったら、相手が分からないことが何か探してやるのが‘研修’って仕事やろ。」という言葉。
「他の人間から見て‘悪い’ところ直そうとするより、ええとこ見て褒めたり。勝手に伸びよるわ…」
彼は、家庭教師の経験からそういうことを学んだそうです。
よく言われることではありますが、体験から言葉を貰うとやってみようかなって気になるものですね。
そんなこんなで、学歴や色んな要素で自分を閉じ込めず、自分の持っているものは取りあえずこの子達に渡していこう、と思えるようになって初めて新入社員たちに親愛の情を持って接することができる様になりました。
新入社員を扱いながら感じたのは、‘面白い’‘楽しい’を感じさせることや‘何かに貢献できる’っていう自分だけの枠から超えた結果を見せた時にどんなことであれ人というのはモチベーションがあがるものだなぁということ。
自分が何かが不得意だ、出来ないっていう感じ方って、まるで人から見たら小指の先にちょっぴり怪我をしただけのように見えたとしても本当に凹んでしまったり将来がないように感じてしまったりするもの、でも、周囲の人がその子の本来の価値や素晴らしいと感じるところを見続けてサポートすることで変化していくという人の可能性をたくさん見せていただいたように思います。
それから、オマケ的には例えこちらが10準備して10レクチャーしたとしても、残っているのって1残ってたらいいほうで…。それに対して目くじら立てない遊び心も貰ったかもしれません。
そういう面白さと大変さを体験させてもらい、その職でもらったものって本当に大きいなと今も感じています。
でも、それでも相手ははっきり言って大人ですし、仕事という縛りもあれば責任という言葉でも括れるし、ある種目的もはっきりしています。
‘学校’って、当たり前ですけど子供が主ですものね。一体この子達がここまで来るまでに本人たちの努力もさながらなんですけどどれくらいの愛のある「目」や「手」や「想い」や「苦労」があったんだろうなぁ、と改めて感じ入りました。
それともう一つ私にとってとても興味深かったことは、盲学校という性格上年齢層の高い生徒さんがいらっしゃる事による影響を教えてもらったことでした。
「勉強」の先にある「知識」や「能力」が社会でどう生かせて貢献できるのか、「知恵」や「才能」として生かせるのかその「目」や「人との繋がり」を持っているのはなんらか「社会」で活きてこられた方たちだものなぁ…と。
実際私も医療と関わる世界に居ながら、さまざまな理由で視力を弱まっていかれた場合の進路に盲学校での就学があると知ったのも恥ずかしながらこの友人のお陰だと思います。
‘学校’って、ある種社会から見ると特殊に感じてしまうのって、逆に余りにも当たり前に同じ年齢の子でくくられるからかしら、、、ともふと感じました。
会社にいるときに馴染めなかったことの一つに「そういうものだから」「昔からそうだから」「そう決まっているから」ということで「こうすべき」と言われてしまうことなんですね。
根っからワガママなんでしょうか、本気で出来ないんです、理由がないこと。
いわゆる‘規格外’。(一応、‘人の道’的な常識は重視派です、念のため)
でも、会社で若い子達を見ていたり、カウンセリングでお話させていただいたりしたときに多く思うのって‘規格からはみ出た私’を責めていること ものすごく多いんですね。感じ方としては‘私は迷惑…’って感じでしょうか。
本来的に誰かの邪魔をしていたりしないのに…。
とっても素敵な才能かもしれないのに…。
一人では持て余しているかもしれないけれど、生かせる場所はきっとあるのに…。
きっと、私もそんな風に見てくれた人がそこかしこに居てくれたんだろうなって、‘学校’に連れて行って貰ってもう一度自分の出会ってきたことを振り返ることが出来ました。
‘大人’といわれるようになって、もう一度、‘学校’見てみると面白いかもしれません。昔はもしかすると「だいっきらい!」だったかもしれないけど。
お子様がいらっしゃる‘大人’の方もお子様がいらっしゃらない‘大人’の方も、ちょっぴり気恥ずかしさを感じながら、機会があったら色んな‘学校’触れてみてもいいかもな、って思う一日。
こんな機会をプレゼントしてくれたお友達、ありがとう♪
迎え入れてくれた、職員の方、素晴らしい演奏を聞かせてくれたり楽しい演劇を見せてくれた生徒の皆さんにも感謝を込めて。