満開の桜の下で、迎えた女子大学の入学式。
いわゆる‘女子教育’では伝統があるらしい。
一体、何の因果か二十歳前であるにも関わらず全ての生徒が、制服である漆黒のスーツに身を包み整然と次々と紹介される教員の訓話を聞いている。
今から十数年以上前、くっきりと思い出される光景のひとつ。晴れ渡った空と、あまりにも似つかわしすぎる桜色の風と匂いに反比例するがごとく、私の心はどんどんと「見渡す限り全員が女子」という異様な光景に引っかかりを感じるこころを隠せずに泣き出しそうになっていました。
どうやら、女性ばかりという状況は当時の私にとっては恐怖すら感じたようです。
慣れというのは、怖いものであると同時に力強いものであるなと思うのは、それでもある種の分離感は感じつつも半年もすると異性の目をあまり感じないですむ気楽さに馴染み、女子だけで物心つく頃から育っている(そういう風に育てたいと意思があるご両親の元のお嬢さんたち・・・といいましょうか)お友だちとの感性や考え方の違いを面白がるようになりましたが。
母校について時折ふれる設立の理念の中には昭和のはじめ「立ち遅れていた女子教育を・・・」というくだりがあります。
職業を持ち優秀である女性を育てたいと感じ、実現したのは母を想う男性のこころであったことは今となっては興味深さを感じます。
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たまには勉強しないとね、、、と思っている昨今、友人から紹介されたいわゆるビジネススクールの1講座。
お題は‘地球経済’と銘打っていて、内容を想像するにもあまりにも言葉のイメージだけでも規模が大きくいったいそんな大きなことを常に考えている人ってどんな人なのかしらね、と興味を惹かれ足を運んでみることにしました。
純粋に興味を惹かれることを勉強する、「これこれのためにせねばならぬ」という縛りのない勉強がいかに楽しいのかは、「これこれのためにせねばならぬ」ばかりの社会人になってから学んだことのひとつ。
今の同僚と一緒に参加した2時間でしたが、思索を深めるにはなかなか素敵な時間となりました。
さすがに‘ビジネススクール主催’とあり、集まってくる人々は面持ちはやや下目、目線もやや下から覗き、真剣そのもののスーツ姿のお兄さん、おじさまがた。
『興味』だけに主眼をおいて生きている私たちとは少し趣が違うよう・・・。
講師はどうやら経済のコメンテーターとしては著名でいらっしゃる(らしい)浜のりこ先生と、日銀出身の学長と肩書きされていた先生のおふたり。
まるで、学長先生を従えるかのように会場に入ってこられた浜先生に同じ女性として少し小気味のよさを頂きました。
50代くらいでいらっしゃるのでしょうか、浜先生、紫のメッシュ、色んな素材と柄を組み合わせたスカートとレースのついたブラウスに太目のベルトでウェストしっかりマーク、遊びの効いたお召し物とはちょっとアンバランスでこれは結構値が張るだろうと明らかに思われる高めのハイヒールが印象的。
テーマは‘地球経済’
こんなデカイテーマ、どこから切り口始めるんだと、思っていたら。
掴みは教授会についてでございました。
ある程度のかたちが出来上がり始めると、常に起きることは大競争か大融合か、世界での経済についても例外でもなく、本校の教授会においても当然起こりうることでその結果は相互依存か排除か・・・、と軽く揶揄するような表現で学長先生にいたずらっぽい目線を送る浜先生。
と、そこで少し苦々しい顔を素直に表現される学長先生もなかなか粋でいらっしゃいました。
経済であれ人が廻していることのひとつ、人間の成熟と本質的には変わらないのでしょうかと、日頃カウンセリングで個人のプロセスを扱うことが生業の私にもとても面白い内容です。
経済を勉強する目的は、エコノミストたちに騙されないためだという、逆説的な論法から怒涛のように話す浜先生。
経済の変化の基本にはIT化(web2.0)にも簡単に触れ、世界のどこの情報でも消費者のすぐそばにある現状になったことに触れ、その結果起こるのは大競争と大融合。
相互依存か、排除か・・・。
国という単位における盛衰の鍵はやはり内向きだけでなく、外側の‘消費者’も意識したグローバル化にあるといいます。
その中でグローバル化に対応する為の4大条件と挙げられたのが奮っていらっしゃいました。
1、財力 2、知力 そして 3、愛嬌(!?) それから 4、度胸(!!)
各国の比較をハナマル〜バツまででそれぞれ解説くださり、4つともハナマルの国は・・・
「ルクセンブルグ・・・」
日、米、中、独、仏、英、そして ルクセンブルグとご説明いただいたのですが
この中で英国の説明が特によくて
「英国は紳士の国と言われますが、やつらの祖先は海賊です!度胸があってなんぼなんです!」といいきる、先生、あなたも充分に愛嬌、と度胸をお持ちじゃないのかしら、と一言声をかけそうになりましたが・・・。
そして日本経済が活性化するにはルクセンブルグという小国にならい地域へ小さく単位をもっての地域に頼った経済活動、行政活動へと論理は展開されていきました。
どうやら、思想の根底には国やそのほか‘大きなもの’に依存する変化が個人を救うという考え方でなく、個人や小さな集団の尊厳を大切にされたいという想いがおありのようです。
彼女の変化をいとわない感性や、闊達な表現は生き方の現れでもあるのでしょうか。
30代中盤、性の違いにより優劣はないと表向きは教えられた私たちですら、社会に出てから教えられたこととまだ受け入れられていない風潮もある社会に違和感を感じることがしばしばあります。
私たちの親の世代に近い方が、好きな服を着て好きなことを言い、表現する、ということがいかに勇気があり知性が必要であったかを思うと逞しくも少し嬉しくもなります。
性別であれ、国籍であれ、収入であれ、肩書きであれ、良くも悪くも家柄であれ、
その人が‘持っているもの’が個人を抑圧するものにならなければいいな、というのは私の人に対しての想いのひとつです。
私が女子大学という‘女性だけを集めている集団’に、設立の経緯を知らなかった当時ある種怖さを感じたのは、今になって思うと「ある共通点」ここでは女性・・・と分かりやすいものなのですが、で枠にはめられてしまう、という恐怖だったのかなと思います。
人間社会の一部としての不自然さ・・・でしょうか。
ある一説によると、社会としてこどもたちに残虐性を見せないようにしていると、結果、殺伐とした事件が増えるという分析がある、と同僚から教えていただいたことがあります。
あるがままである・・・
という言葉は、頭では理解できても成熟にいたるまではなかなか‘腑には落ちないもの’だなぁとは思います。
ですが、本当に世界津々浦々の‘情報’がいつもそばにある現代だからこそ、人間として自然に生きられる社会を作っていくことが出来ればよいなぁと感じます。
私に出来ること、は、人の心の不思議さを解明して、どんな状態になる事だってある得ることを、絶望としてではなく希望としてみ続けることなのかな、とお客様が変化される事を通じて学んでいる気がします。
人間が人間として、自由に生きていけるように願いをこめて。