トリアージ、危機管理・・・ともに神戸在住の私にとって、震災後にとみに耳につくようになった言葉である。震災のすぐ後に東京では地下鉄サリン事件が起こり、近隣の明石では花火大会の折に将棋倒しによる多数の死傷者が出る事故、近隣の中学生による連続殺傷事件、そしてまだ記憶に新しいJR尼崎駅近くでの脱線事故、と、新聞記事などの中にこれらの言葉を発見し、素人ながらいろいろ思ってきたところである。とは言え、教育現場の末端で仕事をしていたので、危機管理についてはよりいっそう強く謳われるようになったのを目の当たりにもしてきている。まあ、事故現場や搬入先の病院での救命処置に関するトリアージ、となれば全く及びもつかない話になるのだが、日常生活の中にこういった究極の選択や先を読み「起こり得ない」と言う考え方ではなく、「起こり得ることを想定しどのように防ぐか」「起こってしまった場合にはどのようにして被害を最小限にとどめるか」と言う考え方を持たざるを得なくなった。見ようによれば、少々悲観的なものの見方にも映るかもしれないが、起こってしまってからでは遅いことを身体で知ってしまっているような感じである。
トリアージとは元々フランス語のtriage(選別の意)が語源だそうで、コーヒーの選別法が名の由来とも聞く。「トリアージ」をネットで検索すると膨大な数の資料が上がってくる。その殆どは医療機関や消防関係、防災あるいは事故関係のものである。トリアージについては最近増えている医療ドラマにも取り上げられることがあり、トリアージタグがあることを知っている方も少なくないだろう。簡単に書いておくと、災害現場等に置いて救助者に対して被害者の数が多い場合に行なう医療機関への搬送や究明処置の優先順位のことで、0、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲの4つのカテゴリーに分ける。カテゴリーⅠでは、生命の危機に瀕する重篤な状態であり、究明の可能性があるものとされ、救命処置や搬送の優先順位は一番になる。カテゴリーⅡでは搬送が必要ではあるが、生命の危機に関わるような状態ではない場合で、Ⅰに次ぐ順位となる。カテゴリーⅢは救急による搬送の必要がないとされるものである。そして、カテゴリー0と言うのが、死亡もしくは現状では救命不可能な状態とされ、救命処置等の順位は後に回る。
トリアージと言う究極の優先順位の選択について、ずっと頭の中に「何か」があり、折に触れて考えていた。今までも機会があると触れてきたことなので今回は詳細には書かないが、阪神淡路大震災における被災と言う体験は、私自身の物事の捉え方や関心の持ち方を含む、・・・大きく言えば人生観や生き方そのものにも「少なからず」と言う遠慮がちな表現は少し不似合いなくらいの影響を与えたと思う。震災の経験が無かったらもっとあっさりとした考え方を持っていたのかもしれない。しかし「ものごとについての優先順位を決める」時に、やはりどこかでこういった感覚が頭の中、身体の中をよぎる気がする。実際に当時身の回りでは少なからず・・・命に関わるレベルを含み、判断をする側にもされる側にもなり得たので、先々への影響も考えていかなければならないと考え出した気がする。とは言えその内容は私の場合、とてもありふれた日常生活の中で、が一番大きく占めるのであるが。
仕事をする中で、あるいは家庭や社会の生活で、あっちとこっちの優先順位を決めざるを得ないことがままある。そんな時にまず考えなければいけないのは?私なりにいつもそんなことをぼんやりと考えていたりする。時には後で選択の失敗を思うこともある。あるいは、これで良かった、と思うこともある。もしかしたらどの選択をしても良いのかもしれないし、無意識的に選択をして生きているのかもしれない。しかしいずれにしろ、その時々での選択により以後の流れが変わることはあり得るし、時には大きく言えば人生が変わってしまうことだって起こり得るのではないか、と思っている。それは進路であったり住む場所であったり、パートナーを選ぶことでもそうだろうし、タイミングにしてもそうだろう。後悔をしない選び方をしたいものだ、と思う。少なくとも、後で考えてもその時にはそれがベストの選択だった、と考えられるようであれば良い、と思うが、「そんなことは起こり得ない」として考えなかったために慌てることはもうこりごり、とも思うのである。東海大地震は古くから言われているが、このエリアではそういった疑いはそれまで殆ど聞いたことがなかったのじゃないかと思う。そして震災後、得たものも少なくないがもちろん失ったものも甚大である。かと言って失くしたものを思うより、これからどうすれば良いか、に向けて行く必要がある、と思い生きていた日々を思う。
色んなことを進めて行く時に自分なりの考えや方針を持ち、やりたいこと、やらなければいけないこと、やっておいた方が後々のためには良いこと、などを意識するかどうかは置いておいて、その優先順位をそれぞれに考え、TPOに応じてフレキシブルにつなげていくことは実際にしていることが多いと思うのだが、私にとってはこの稀有な体験が更にこの感覚を深くしたような気がしている。その頃の仕事の内容からも震災を機に「危機管理」がより強く前面に打ち出され、優先順位の中でも特に「今しなければならないこと」と「後々のためにしておいた方が良いこと」、「しておきたいこと・したいこと」についてが葛藤を起こすことも少なくなかった。中でも「今これをしなければ・・・」と言う課題の中には、人命に関わることもあれば、上司や本社、関係省庁などからのお達しと言うこともあろうし、家で待っている子供たちへの夕食の準備、と言うようなこともあるだろう。「その時自分でなければできないこと」を最優先にするとしたら、子供たちの夕食の準備になるのかもしれないが、目の前で重大な側面が動いている場合だとはずせないことだってある。そういった時には近所の友人や親類に子供たちの食事をお願いして「職務」に当たらなければならないこともあるだろう。家庭と仕事を両立するためには、大まかに先々の仕事の流れを読み、食事の準備を整えてから仕事に出かけたり、どうしても無理なときには友人や親類にあらかじめ頼んでおく、と言うようなことは日々のことで、手に付ける家事にしても「まず食べること」「子供の体操服などの洗濯物」「掃除はとりあえず今日はしなくても間に合う」・・・と言うようにいつも頭の中で順番を組みながら向かう。そうすると、それまで「今これをしておかないと!」と思っていたことが意外にもどんどん後の順位になったりする。たとえば・・・。
子供たちがまだまだ幼かった頃・・・新居に転居した後は特に、せっせと掃除や片付けをしていた。新しい家に引っ越したので、これは優先順位としては高くても当たり前である。しかし或る日、いつもより静かな子供たちの様子が気になり振り返ると、真新しいふすまに落書きを伸び伸びとしていて(それもよりによってボールペンで!)、その無邪気な笑顔と新しい家を汚されたと言う思いで殆どパニックになったことがある。後にそのふすまは息子たちの落書き専用になり、貼りかえるまで続く事になるのだが・・・。このことがあってから、家は誰のためにあるのか、と考えることも増えた。子供と生活すると言うことはこういったことが毎日何かしら起こり、家と言う「箱」と子供たちを育てることの兼ね合いを考え、色々試したりもしたが、どーしてもこりゃあかん、と言う場面で雷を落としもした。中でも私にとって息子たちへの優先順位の一番は「危機管理」・・・その命を守ることだったので、「高所」「誤飲」「火」「水」「車」などの事故に遭わないように心を配ることが最大の関心事であった。未だに息子たちは、幼い子供たちが車道に飛び出そうとしている姿を見たらこう言う。
「俺らが子供の頃、めっちゃ叩かれたよな〜。」
「何言ってんの!痛いと思う前に死ぬより良いでしょーが。」
彼らは、恐がりでは決してないが(自転車の乗り方を見たらすぐに分かる・・・)、幸いに大きな怪我も病気も今までなければ、少々は自分で何とかしていてもこれはまずい、と言うときには医者に連れて行ってほしいと私に頼むので、これは彼らなりに優先順位を考え、危機的な状況を判断しているらしい、と思うのだ。私自身、幼い頃にほんの一瞬の母の隙に事故に遭ったのだが、三歳の私は未だにそのことで自責をしている。それは、自分が怪我をしたことで母を苦しめ続けた想いが未だ残っているためだ(最近は薄れてきたが)。もちろん、母の側の罪悪感も並大抵ではないと思うが。息子たちにそんな想いはさせたくはないし、こう言う連鎖はやめたい。これは自分の失敗から来ている危機管理の考え方で、震災後私たちの街が得たものと同じだと思う。こういったことを活かすことはとても重要なことだと私は思う、しかも出来るなら誰もが無傷で。
こんなことから、何かをするときの優先順位を考えるときに、すごく大げさに思われるかもしれないが災害現場でのトリアージを思う。トリアージについては先に述べたが、今後もどんどん進化していくのだろうと思う。その裏で、様々なことが起こっている。ことが起こってからでは遅い、と言うのは簡単である。起こりうることばかりを考えていては何も出来ない、ということももちろんそうだ。しかし、立場を変えて考えてみたらどうだろうか。
トリアージのカテゴリー0と言う評価を出すときの、医師の気持ちは?実際には例えば、心肺停止状態であっても違う状況であれば・・・人手がもっとあり設備が整っている状態であれば蘇生だって可能なことがあるだろう。悔しい思いをすることも少なくないに違いない。その状況下でカテゴリー0と評価された犠牲者の遺族の想いは?実際に尼崎の列車事故の際には、被災者にトリアージタグが付けられているところが放映され、その方の親族が動揺をしたと言う話もある。黒いタグ、つまりカテゴリー0と評価されていながら酸素マスクを付けられていた・・・と言うことはその時点では死亡ではないが「この状態では救命が難しい」と判断された、と言うことであるので、もしもトリアージを違えていて救命処置を迅速に施されていたら、と言う想いからなのだろうと思う。親族の身になればそう思うことは当たり前だろう。しかし、出来るだけ多くの人命を救助すると言う立場に立てば、重篤さの度合いよりも助けうる人をまず助ける、と言うことの選択を余儀なくされるのもまた、当然だろう。ここに、震災時の火災発生間際の、瓦礫の下から家族への「最期の愛」を送った人々のことを重ねてしまうのは、私だけだろうか。どの命にも重いも軽いもない。出来れば全員助けたいし、誰だって助かりたいだろう。家族にしてみれば、いやそうでなくても、助かるものなら何としてでも助けたいとも思うだろう。
トリアージとは、まさに究極の選択だ。私たちの日常ではそこまで切羽詰ることは普段はまずないだろうが、それにしてもそれぞれに「究極の選択」を余儀なくされることはあるだろう。よくある質問に、「目の前で子供とパートナーが溺れていたらどちらを優先して助けるか」と言うものがある。同じ人でもその時々で答えは違うだろうし、それぞれいろんな意味をつけたがりもする。だけど、正しい答えはたぶん、どこにもない。その時になってそれぞれがする選択が一番正しい、のかもしれない。しかし、色んなことを考えた上で、順番を変えてみたり、気づいたことを伝えてみたり、ちょっとした心遣いから大きな災難を逃れうることは否めないんじゃないか。あるいは最小限の被害に留めうるのではないか。備えあれば憂いなしとは言うものの、これが行き過ぎてもまた、身動きができなくもなる。
そんなことをつらつらと私は今日も考える。日々小さな選択を繰り返し、少し先を見ては優先順位を考える。その中には実は人生を変えるくらいの重大な局面だってあるかもしれないし、今までにも実際にそんなことはあった。慎重さや用心深さと共に思い切った判断も時には必要だ。それには周りへの信頼は欠かせないだろう。もちろん信頼の最大限の矛先は自分に向けられる。大きな選択をするときには腹を括りその結果の責任を感じておく必要もあるだろう。でも不思議なことに自分が本気で選んだことに対しては恨みもなければ後悔もない。これは私が人生を通して感じていることで、同じことでも自分がやろうと決めたことについてとそうでない時とでは違って感じる。またある程度の予測が立っていたら動揺することも少ない。でも自分の方向性とは違っている・・・。こう言う時こそ「選択」の能力が問われることになる。日々の選択と言えども侮れないとも思うが、自分の信念に基づいた選択は後々になっても後悔がないんだろう。つまり、その時点ではベストの選択だった、と思えるから。
繊細な心配りと大胆な判断力を持ち、実行できるようになりたいと思う、そしてそんな自信を持てる自分になりたいと心から願う、今日この頃の私なのである。