はじめにお断りしておきますが、今回のコラムに書かせていただいた
のは、僕が個人的に感じたことであって、宗教についての善し悪し等
について書いたものではありません。
その点について、ご理解いただきお読みいただければと思います。
僕がカウンセリングの勉強をはじめる前のこと
結婚式には、
教会で牧師さんの前で結婚の宣誓するやり方や
お寺でお坊さんの前で結婚の宣誓するやり方など、
いろいろあるが、僕は、自分がやるなら、どちらもとても嫌だった。
なぜなら、その時には「宗教に人は救えない」と考えていたからだ。
その当時、僕は、とても浮気性で、特定の恋人や結婚相手がいても、
他の異性に心を奪われることは、しかたがないことだと思っていた。
結婚の宣誓を、「この人以外の人と恋したり、愛したりしません」
と勝手に解釈していたので、できもしないそんな宣言できない、
ましてや、神や仏の前でなんて!
と真剣に思っていたのである。
このことで、どれだけ奥さんや僕に関わる人たちを傷つけたか、計り知れないが
その頃の僕は、それが目に入らないほど、自分や周りが見えていなかった。
ある時、僕の親友が結婚することになった。
彼は、こんな僕が手を焼くほどの浮気性で、
自分のことは棚に上げて、こいつは絶対結婚に向いてないと思っていた男だった。
そんな彼が、ある時、ゴスペルをきっかけに、クリスチャンになった。
すると、彼は本当に改心して、浮気性がなくなってしまったのである。
その結婚式は、教会で行われた。
そこで牧師さんが、聖書の一節を語った。
それは教会での挙式でよく話される、「愛の賛歌」ともいわれる、
コリントの信徒への手紙13章から引用された有名な言葉だった。
その中に出てくる、信仰さえも愛がなければ無に等しい、
という言葉にとても感激した。
僕は、日本ではとてもオーソドックスな仏教の家に生まれて、
けれども、周囲に様々な宗教がらみのトラブルを抱えて育ったために、
いつしか、神や仏を信じる人達が語る「愛」というものに不信感を持つように
なっていた。
何かを信じることで傷つけ合わなければならないのであれば、
神や仏が語ったと言われる「愛」をどうして信じることができるのだ、と。
けれども、その「愛」についての言葉を聴いた時、僕は
宗教あってこその愛ではなく、
信仰と愛との分かれ道があるときには、愛を選ぶのだと
言っている気がしたのだった。
だったら、神や仏というものを、そして「愛」というものを
わかっていなかったのは、誰あろう、僕自身なのではないか。
クリスチャンではない僕の勝手な思いは、本当の解釈とは違う
のかもしれないが、ともかくも、そう思ったのだ。
今思えば、後にカウンセリングによって、
自分に価値がないとの思いから浮気性になったことを知り、
自分を愛せるようになり、それによって人を愛せるようになっていけたのは、
この時初めて「愛」というものを意識したことがきっかけだったのかもしれない。
「愛」というものは存在するのかもしれない、と。
彼はキリスト教に救われた。
僕はカウンセリングに救われた。
救われるきっかけは、いろいろあっていいし、実は、どこにでもあるものだ。
僕はカウンセリングという形で、そのきっかけの一つを提供するお手伝いを
しているにすぎないと思う。
彼ら親友夫婦と僕達夫婦は、ほとんど同じ時に娘を授かった。
今はすっかり「バカ親」ぶりが板についた夫婦同士である。
-Special Thanks Shiho-
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