花に付いたアブラムシに殺虫剤をかけ、ジンマシンを起こすイラガの幼虫を踏み潰す私、お肉も食べていますが、一方ではこんなことも感じています。
「動物はお母さん」っていう言葉を耳にされたことはありますか?
どこで聞いたのか忘れてしまったのですが、動物が登場するテレビ番組のワンシーンで語られていたのではなかったかと思います。
「人間とともに暮らす動物達は、いつも私達を見守ってくれている。まるでその瞳はお母さんの眼のようだ。」そんなお話だったと思います。
なるほど、とこの言葉に頷いたのには、2つの訳があります。
それは、私に施されたあるセラピーのセッションを思い出したことと、うちにやってきたネコたちの姿に思い当たったことです。
もう十年以上も前になりますが、うちに2匹の子ネコがやってきました。
一緒に生まれたらしく、同じ段ボール箱に入って置かれていた4匹のうちの2匹でした。
可愛い模様の雄のトラネコ達は次々にもらい手が見つかり、女の子2匹が残されました。
色んな意味で余裕がなかった当時の私には、とても飼う自信はありませんでしたから、一晩だけ泊めてあげるつもりでアパートに連れて帰りました。
秋祭りの夜でした。
新しく越してきたその土地では、道祖神祭りという珍しいお祭りが行われていました。
お神輿は男性と女性を表していて、子孫繁栄を願い、五穀豊穣や平和を祈る意味も込められたお祭りのようでした。
珍しいお神輿を見ようと出かけて戻ってみると、ネコが見当たりません。居なくなったかもしれないと思うと愛しさが募るものなのか、探し回っている間に、飼う決心が固まりました。
1時間以上も探して見つかった時、ネコたちは冷蔵庫の裏の部品のすき間に身を寄せ合って眠っていました。
それから十年以上が過ぎ、あの自信のなかった私に、ネコ達はたくさんの贈り物を残してくれています。
毎晩くっついて眠り、お庭のあるおうちに引っ越すなど色んな問題をクリアしながら一緒に暮らし、顔を見合わせて泣いたり笑ったり・・・そんな中で、ネコ2匹が見せてくれたこと、私にしてくれたこと、私にさせてくれたこと。それは、親密感、信頼、コミュニケーション、愛、といったすばらしいもの全部を経験させ、私の中に育ててくれたことだったと言っても、大げさではない気がします。
でも実は、1匹がこの世を去るまで、私はあまりそのことには気付いていませんでした。
はじめ、ネコの寿命は5年と聞いていて、『5年の覚悟で飼っていたのに、8年過ぎてもまだまだ元気、5年というのは野良猫の寿命だったのかあ、いつまで飼えばいいのだろう?』 とさえ思っていました。
ごはんにも、健康にも気を使わず、しかも悩み多い毎日で、帰ってきても泣いたり怒ったりしていた日がたくさんありましたから、そんな私を見つめ続けていたネコたちにも、きっと悲しい思いをさせていたことでしょう。
今から3年ほど前、1匹が重い病気であることが分かり、奇跡的に4ヶ月長く生きてくれましたが、やって来たのと同じ秋、お祭りを前にして、コスモスの花が揺れる中、この世を去りました。
そんなことがあってやっと、私はネコ達がしてくれていること、見せてくれていることの意味や大きさに気付くようになりました。
十分してあげられなかったことへの悔やまれる気持ちや、お別れを受け入れられない気持ちで、数ヶ月が過ぎているのに悲しみが止まらない状態が続いていたとき、カウンセリングサービスの母体である神戸メンタルサービスのヒーリングワークに参加するようになりました。
まもなく、私自身の問題を扱ってもらえるチャンスをもらい、ネコの話が出るとすぐに泣いてしまう私を見たトレーナーが、ネコをセラピーのセッションに登場させてくれました。
ある方がネコの役になってくださり、会いたかったネコに再会できる機会に恵まれて、すごくホッとした温かい気持ちになりました。
ところが、セッションの途中で突然トレーナーが、なんと!
「ネコはお母さんです。
」
と言うのです。
ネコの役をやってくださっていた方が、母の役に変わってしまったのです。
母といえば、最も苦手な存在。かわいいネコだと思ってホッとしていたのに何てこと!とは思いましたが、説明を聞いて納得しました。
私は、本当は小さい頃から、母に抱っこされたり、きゃあきゃあじゃれ付いたり、「おかあちゃん大好き〜。」って言ったり、「いい子やね〜。」といっぱい言ってもらったり、したかったんですね。
でも、いろんな事情で、母とも家族とも他人とも距離をとり、愛さないように、愛されないように、必死で壁をつくってきました。
でも、本当は、『みんなと親密になりたいし、したいことやしてほしいことがいっぱいあった。それをネコとだったらできた。ネコとだけはしていた。だから、ネコとお別れすると、心底孤独になるように感じた。』ということのようです。
これから人との交流を増やしていければ、今の深い悲しみは楽になっていくはず・・・とわかりました。
それ以来、少しずつ人との交流が豊かになり、お別れの悲しみは楽になり、ネコがくれている贈り物の意味も温かく感じられるようになっていったのでした。
今、1匹になったネコは12歳になろうとしています。
まずまず元気です。
何となく私達は一緒に暮らしていますが、ふと気付くと、いつもネコは私を見てくれています。
本当に、お母さんのように、私を見守ってくれているように思えます。
私もネコを可愛がりますが、ネコも私をまるで可愛い子どもを見るような目で見つめて、両手で包んで舐めてくれたりします。
思えば、2匹とも生きていた頃、お互いがお互いを自分の子どものように慈しんで、体中舐めてあげたり、何かあると相手を心配そうに見守っていたりした姿も、思い浮かんできます。
またある時は、友だちのところに舞い込んだ眼も開かない子猫を預かって、うちの2匹がお母さん代わりをしたこともありました。
また、1匹がこの世を去る数秒前、苦しかったはずなのに、まるで海の底のような深い穏やかな眼をしてじっと私を見つめてくれたことも思い出します。
すべてを受け入れてくれていたのかもしれません。
動物は、こんなふうに、いつでも、何気なく、素朴に愛を与えてくれるのかもしれませんね。
お母さんの愛、無償の愛、海のような愛、大地のような愛・・・でしょうか。
私たちも、動物と触れ合うと、色んなことを考えるのを忘れて、そんなふうに愛をすんなりと受け取ったり、与えたりできるのかもしれません。お母さんになったり、子どもになったりして。
ネコや小鳥を見ていると、動物は人より小さくて短い一生を運命づけられているけれど、心をもった存在ということでいうなら同じなんじゃないかと思ったりします。
そして、動物のお話をしてきた後に書くのは、失礼と感じられるかもしれず、また言うまでもないことではありますが、もし失礼に感じられたらどうかお許しくださいね。
小さなお子さんが、大人に、大きな気づきをもたらしてくれることも多いですよね。たくさんおしゃべりができなくても、体が小さくても、心をもった愛の存在として、大きな存在なのだなあと思います。