気がつけば、九月に入っていました。
この間まで激しい梅雨にうんざりし
ていたのに、雲が流れるように時間が過ぎていて。自宅のささやかな屋上に
上がり、ささやかな風景を見れば、あれほど盛んだった山の緑が心なしか煤
けて見えます。
蝉の声色も変わりました。
アブラゼミがなりを潜め、ヒグラ
シやツクツクボウシがとって変わり、景色に色を添えています。
少しずつ夕
暮れが早くなり、街を染めゆく角度も変わってきているのに、気づきます。
・・・時間は待ってくれない、とも言うし、誰にも平等に与えられている、
とも言います。
でも、感じ方が変わってきたことには間違いないんです。
今
から思うと、まだまだ時間があったはずの十代後半、無暗に追われるような
時を過ごしていたな、と。自分自身の意志よりも、周りに流されていた、少
なくとも私はそうだった。そして、親を当てにすることが減り、自分の人生
を本当に自分なりに歩いていた、二十歳の頃。休まない癖がついたのは、こ
の頃からでしょうか。したいことが多くて、時間を惜しみ、あれこれと関心
を向けていました。
悲しい?ことにそのことだけは、今も変わりがないけれ
ど。
そう、悲しいのは、好奇心の強さではなく、それに伴う体力が衰えてきた、
と言うことかな。以前のつもりで何でもやろうとしてしまうけれど、自ずと
体力は落ちてきてる。徹夜なんて3日くらいは平気だった頃と同じように、
動こうとすること自体、無理と言うもの。もう少し自分を労わってもいいよ
なぁ。転がる石に苔は生えないと言うけれど、生えてもええやん、とも思う
今日この頃なのです。
いや、むしろその方が情緒的でいいのかもね。
でも、衰えることがないのが、私の好奇心なんです。
知りたい意欲、出来
ることを増やしたい想いがいっぱい。人はどうせ死ぬのに、無駄なことだ
・・・と言う考え方もあるだろうけど、そこは人それぞれ。私にはまだまだ
自分を試してみたいことがたくさん、たくさんあるのです。
このところ、と言うか実は慢性的なのだけど、女としての自分を考えてい
ると、どうしても「男と女の間には暗くて深い川がある」と言う、野坂昭如
の歌声(うなり声?)を思い出いしてしまいます。
古い?そうですね、ごめ
んなさい。しかし、本当にそう思うねんもん。
「女は損だ」と思ったことは、実のところ、そんなに記憶にあるわけでは
ないんです。
ただ、母親に「女の子だからお行儀よくしなさい」「女の子は
でしゃばっちゃダメ」「女の子は・・・」と言われていたことが、すごい力
で呪縛になっていることを思い知る今日この頃、なのです。
人前に出て、何かをする。
出来ることを、披露する。
自分のことを、評価する。
今となれば当たり前のことなのに、一々心の中で引っかかります。
外から
見ればそんな風に感じないかもしれないけれど、私の心の中は、常に葛藤の
嵐であり、それを越えての行動なので、見えているよりも負荷がかかってい
ることが多いんですね。意外ですか?
私の中に流れている、父の血と母の血は、私と言う一人の人間、女性を形
作り、私もまた流れを繋いでいく。私、と言う存在が自分がどう思おうと、
周りには少なからぬ影響がある。それは、私自身のことに限らず、たとえば、
今これを読んでくださっているあなたが、自分に置き換えてくださっても良
い。また、自分以外の人々の全てもまたそうだ、と考えてもいい。とにかく、
人は影響を与えたえ合う中で生きている。そんな風に思います。
だけど、自分を感じ、表現しようとしたときに、未だに足枷になっている
のが「女の子だから・・・」と言う『呪文』なんです。
しかし、私が男の子
だったらきっと「男の子なんだから」になり変わっていたのだろうな。いず
れにしろ、同じなのかもしれないのですが。
しかし、我が家の二人の息子は私から生まれ、一緒にいるのが長いので、
私の影響が色濃いはずなんですが、これがまた・・・。私は自分自身の経験
から、「男の子だから」と言ったことはまずないと思うんだけど。男だから
女だから、と言うことはあまり意識しておらず、一つの個性、位に思ってき
たし今もそのはず。しかし、しかし。我が家の息子達と来たら、世に聞くオ
トコ達の言動をするのです。
まず、返事をしない。顔を向けるだけとか、頷くだけとか・・・わからへ
んっちゅうねん。で、返事をしない、と言うと逆ギレされることもある。
どないやねん・・・(女の言い分)。言わなわからへんことかってたくさん
あるねんから!とは思うけど・・・。
世の男性の皆さま、どうお考えになられますか?
そして、トイレの便座は上げたまま。私は、男の多い家族で生活しなれて
いるので、ほぼ反射的に確認するんだけど、上げたままのことが実に多い。
それがどうした、と男性は思うのだと思います。
だって自分達は高い確率で
便座を上げるから、自分達はオートマティックに確認をするでしょう。でも
私たちは掃除以外に上げて使用することはまず、ない。だからそのまま座っ
て、エライ目に遭うこともあるんです、時にはね。でも、それは不注意だ、
とか言われた暁には・・・。上げたままにしておくのだって、次に入る人へ
の配慮がないと言う、一種の不注意だとは思わないの!?などと言うと、時
にはバトルモードになってしまうので、ここは要注意。
まあ、そう言ったことだけではなく、いつの間にか「自分は男だ」と思っ
て生きているようですね、奴らは。いつの間にか力もついて、買い物に行っ
ても私が手ぶらでいることが増えました。
さりげなくついて来て、黙って荷
物を持つ。当たり前、なんだけど、嬉しいですね。しかし・・・それにして
も。
はぁ。息子、と言う血の通ったオトコ達と暮らしていてこの始末。母さん、
少々ならずお疲れ気味ではあります。
長い社会人生活を経て、世の中には、「誰か」が面倒を見てくれて仕事が
できていることが半ば当たり前になっている人が結構いる、と思うのです。
それは、言葉を変えれば、「自立的な人の依存的な部分」と言うことになる
んですが、大体、そんな人の依存的な部分を補完するのが、多くは女性じゃ
ないでしょうか。これは補完する側の僻みかもしれないけど、されている方
はどんどん当たり前になり、違うものをほしがるようになる。これは浮気の
原理の一つになるのではないか、と思うんだけど、どうでしょ?もちろん、
これは男女の別がないのだけど。かと言って、そこに感謝がないわけではな
い。でも、伝わっていないから、行き違いになる。それが男と女の間の
『暗くて深い河』になることが往々にして起こりやすい、と思うんです、
体験的にね。
言葉は人間にとって大切な道具、だとつくづく思います。
要は、いかにコミュニケーションが大切か、と言うこと。私はこう見えて
も意外に恥ずかしがり屋で、控えめだったりします(誰だ!?笑ってるのは!?)。
思ったことが言えないことも、実は少なくないんです。
すごく勇気を持っ
て伝える事もあるけれど、負荷がかかるので、二の足を踏むことも、ままあ
ります。
そうこうしているうちに、次々と流れが変わっていたり。しかも、
本流は本当には変わってはいないのに、流れに乗せられてしまうことが、自
分だけではなく周りにも起こりうるから、話はややこしくなったりする。
思えば若い頃、そんな感じで失恋したことが一度ならずあるなぁ。でも、
年齢を重ねた今は、「本流」を感じることができている、と思うので、苦し
みながらもまた、信じることを選ぶことが出来る。これがまた、負荷のかか
る話ではあるのですが。自分が感じている「何か」を、以前より信頼できて
いる、と言うことでしょうか。
でも、そのことを、流されている最中には気づいてくれない人も、ありま
した。そう言うときのコミュニケーションは難しいですね、本当に。何も伝
わらない感や取り付く島がない感じが、コミュニケーションをとりたい側に
はあるし、相手側は、そっとして置いてくれ、と言うような。時がたてば見
え方が変わることは多いのですが(だって流れているから景色が変わるもの)、
その時に、一番深い所を何が流れているか、を信頼してくれているのは誰か、
と言うことに気づいたときには遅かったりするからです。
これは、私のことだけではないと思います。
夫婦関係やパートナーシップ、
親子関係、友人関係、職場の人間関係etc.ちょっと見回して見てください。
大切なものを、見逃してはいないでしょうか。
誰かが支えてくれていることに、気づいていますか?
そのことに感謝をあなたはどれくらい伝えることができているかしら?
相手にも言えない言葉があることに、気づいていますか?言わない方が悪い、
と言ってしまうことも出来ますが、少しだけ心の声に耳を傾けてあげることも
できますよ、あなたにとって大切な人なのならば。
ああ、こんなに我慢してたんだな。何で言わなかったの?言えないには何か
理由や背景があるんだなあ。などなど。
そう思ったときが、コミュニケーションのスタートです。
少しだけ、相手の手に乗ってあげること。
少しだけ、相手の望む方法を使ってあげること。
私の知る補完の上手な先輩は、そういうことが本当に上手でした。
そうする
と、相手は「解ってもらえた!」と思うから、ゆるんだり、一歩進んでくれた
り。まさにパートナーシップの見本だなあ、と今更ながら思います。
さあ、秋が来て、心は少し違うものを感じはじめます。
人の心って不思議、
季節に順応するところがあるんですよね。季節性うつ病と言うのがあるくらい
ですから。
今年はどんな秋にしますか?
私ですか?私は・・・来た風を受けて、おいしい実が成れば素敵だな、と
思っているんですが。これから長くなる秋の夜を、心で、耳で、体全部で感
じながら、また一つ進んで行こう、と思っています。