秋風が心地よく、濫読癖が強くなる季節になりました。
あれこれ読みかけては、積んでいる本が結構な数になっています。
このところ、小説等のフィクションは減り、心理学や精神世界と言うジャンルに入れられる本や、少し違った分野のやや専門的な書籍、と言う感じが多くなっていますが、その中に相変わらず混じっているのが、「星の王子さま」です。
「星の王子さま」の物語の、粗筋は概ね書くことができます。
しかし、実のところその深さは個々に読んだ感覚や感性に左右される、とても不思議な本でもあります。
私にとっては、まさに哲学書でもあるのです。
随分前ですが、映画化もされていました。
さて、ストーリーは。
語り手である飛行士が不時着した砂漠で出会った幼い少年。彼は「王子さま」と名づけられるのですが、王子さま(彼は、自分一人が住むとても小さな星の住人で、星に残してきた一輪のバラの花の事を、離れた今もずっと心に抱いているのです)の豊かで美しい感性そのものと、様々な惑星を巡る旅で知り合った人達の事を、「王子さま」の感性で飛行士に語る、と言うところが前半に語られています。
地球に「着いた」王子さまは、飛行士と砂漠で出会います。
ここには、例えば細かい時系列が刻まれている訳ではなく、とても観念的な物語です。
その中で、蛇(毒蛇らしい)やきつねと出会い、やりとりがあるのですが、きつねは、言うなら人見知りをする、新しい友達。そして、王子さまに人生訓などを教えてくれる存在です。
表題の「ものは心で見る」と言うのは、きつねが王子さまに贈る言葉なのですが、その後に続く言葉はこうです。
「肝心なものは目では見えない。ものは心で見る」
この言葉は、王子さまと一緒にいる期間を決めたきつねが、その期間の終わりに教えてくれた、大切な「秘密」です。
どうですか?素敵な秘密、素敵な人生の秘訣だと思うのですが。
この言葉には、いろんな捉え方があると思います。
それは、心は目に見えないんだ、とか、絆の深さは一見では解らないものだ・・・とか。
じゃあ、聞こえる事はどうなんだろう、聞こえない事に真実があると言う事は?
言葉にならない言葉。行間を読む。「空気」。言わば、ノンバーバル(非言語)コミュニケーションです。
実際のところ、形や外見などから、一見では解り難い事が本当に多い、と思うのですね。それをどう感じ、受け止めるか、と言う事になると、これは「個々の『認知』の問題」になるのかも知れません。
「認知」と言う事について、身近な例えで簡単に私の感覚で表してみましょうね。
一般に「赤」と呼ばれる色と自分が「赤」だと思っている色が同じかどうか判らない、と言うようなことを考えた事があるでしょうか?
例えば、りんごやトマトの色を赤だと教えられているので、自分がそう認識している色は「赤」だと思っているけれど、他の人にも同じ様に見えているかどうかは、判らない訳です。
なので、トマトを赤い、と皆は言うけど、自分が見ている赤ではなく、自分が緑、青、と呼んでいる色が、他の人にとって「赤」と言う色かもしれない、と言うような感じです。
トマトの色を赤と言う(事実がある)→トマトは赤い物→赤と自分が認識している物は他にリンゴがある→リンゴも赤い→でも赤だと自分が思っている色が他の人にも赤だと感じられているかどうかは判らない(自分が青と認識している色を赤だと言う人もいるかも知れない)、と言う感じ。
一方。トマトの色を赤と言う(事実がある)→トマトと同じ色の物は赤い色をしている→同じ様な色の物にリンゴがある→リンゴも赤い→リンゴやトマトと同じ様な色を赤と言う→誰にとってもあの色は赤だ(と思っている)、と言う感じ。
感じ方についての考え方で、ユングの性格論に「外向型」「内向型」があります。
よく言う、「うちの子は内向的(ここでは内気、と言うほどの意味)で・・・。」と言う様な事とは少し違っていて、外向的な態度とは、外へ関係を求めて広がりを見せると言い、内向的な態度とは、外からの刺激や圧力に対して自己の価値観を守ろうとするのだ、と言います。
この観点で考えると、前者が「内向型」であり、後者は「外向型」である、という事になります。
そうしてみると、星の王子さまや、この物語の語り手である飛行士は、内向型の人でしょう。飛行士が子供の頃に描いた、大人には決して解って貰えなかった「うわばみ」の絵は、多くの人に、「ゾウを飲み込んだうわばみ」には見えないのですから。
反対に、2番目の星の「うぬぼれ男」や数字を気にする4つ目の惑星のビジネスマンは、外に向かっている外向型、という事になるのでしょう。
これはどちらが良いか、と言う事ではなく、同じ行動から感じている事や向かい方が違うのだ、と言う事を踏まえていると、お互いに対する見方や理解の仕方も変わるんだなぁ、と思います。
例えば、パートナーとの相性や、職場での対人関係においても、こんな見方の取り入れ方で違ってくる様な気がします。
私はそんな風に感じていますが、私自身の傾向として、自分の内側に落としこんでいくことを自覚しています(内向型)。なので、私の表現や文章が解りにくいと感じられる方は、外向型のパターンをお持ちなのかも知れませんね。
卑近な例で言うと、同じ映画の同じ場面で、みな同じ感情を持つのかと言うと、時には自分だけ泣いていたり、一人ウケしてしまったりすることがあると思うのですが、いずれにしろ感性と言うものはそれくらい個人差・個性があるものだな、と思っています。
さて。
それくらい、感じ方に個人差があるとして。目に見えない大切なもの、肝腎な事と言うことはどういう事になるでしょうか。
全く異なる感性を持っている者同士に見えるのに、どういう訳か「真実のパートナー」や「無二の親友」という存在になる、と言うこともあります。
もしかしたら、一見は全く違う方向を向いているように見えても、実は、奥深いところで同じ事を感じていて、深い繋がりを感じているのかもしれません。
こんな感覚が「肝心なこと」は目に見えなくて、心で見る、と言う事なのかもしれません。
私は子供の頃、親(特に母)にとって、とても解り難い子供だった様ですが、その理由は、母が外向型で私が内向型であったから、とすれば、何だか納得ができます。
母が私に教えてくれた価値観は、残念ながら私にとっては多くは永久性の無いものでしたが、私の学びと言う点で考えれば、とても多くを占めている要素になると言えると思います。
それは、自分と同じ価値観を持つ人ばかりなのではない、と言う厳然たる事実を、早い時期に知ることになったと言うことに、最も大きな意義を見せて貰えていると思うからです。
感じている事もまた、見える物では決してありません。ただ、相手の感性を「自分とは違う」「そんな感じ方もあるのだな」と言う受け止め方で、相互理解は随分進むんだろうな、と思います。
「飼い慣らしたものには、いつだって、きみは責任がある。きみは、きみのバラに責任がある。」
きつねのこの言葉として表現されているのですが、そう考えると更に深い趣を感じます。
お互いに馴染んだ者に対して、自分にしか取れない責任がある・・・。現実問題においては、責任を全うするという事について、相互に様々な想いや価値観が、或いは自分自身のニーズ(欲求)が相手に対して出てくる事だってあるからです・・・体験的に。
互いの存在から成り立っている状態を手放さなければいけない時、更に強く感じるのではないか。時には「責任=accountability」をどう捉え、どう向き合っていくかを選んだ時に、互いの新しい生き方がそこにあるのかも知れない。
もしくは、問題を抱えながらも、一緒に生き続ける選択もあるでしょう。また逆に、そうしない事によって自分自身を守る事から始まる、「何か」があるかも知れない、とも思います。
私自身が通ってきた道からの経験でもありますが、どんな形や方向性であったとしても、自分自身の人生に責任と信頼をもって生き方を選ぶ事で、始まることがあるのだ、と思っています。
責任をどう捉え、どう全うしていくのかは、人生観や価値観はもちろんの事、個々の状況や考え方、相手との関係性も深く関わるでしょう。
ですが、相手(周囲)に対しての責任だけではなく、自分の人生について、責任を持って生きていく事自体が、結果として関わった人に対しての最高の関わり方になる様に、私は考えています。
それが、・・・たとえ「自分達」以外にはとっても解りにくい事であったとしても。
こんな風に、「星の王子さま」は私にとって、いろんなことを示唆してくれる人生の哲学書でもあり、心理学の教科書でもあります。
何度も読んではその度に、心に啓示を受ける、と言っても言い過ぎではないのですが、今年の秋の夜長はそれよりも、美しい星空の下、純粋なファンタジーとしてもう一度味わってみたいな、と思っています。
今までに読んだことのない訳で、読んでみようかな。
どこかにある小さな星で、仲良く暮らしている王子さまと、強がりなバラを想いながら。
もし、この稿を読まれて関心を持たれた方は、この秋、ぜひご一読されることをお勧めいたします。
(引用:集英社文庫「星の王子さま」サンテグジュペリ作 池澤夏樹新訳)
(参考文献:講談社現代新書「ユングの性格分析」 秋山さと子著
別冊宝島279号「わかりたいあなたのための 心理学・入門)