memento mori(死を忘れるな)  ~~限りがあるからすばらしい~~

 気づくと、年女も終わり今年の6月末で49歳になる。息子たちはそんな私を揶揄して、「信長や謙信が亡くなった歳と同じや」と言う。ああ、人生50年・・・かぁ。
しかし、周りを見渡すと、私の子供時代に感じていたよりも遥かに、五十台、六十台はおろか、七十台、八十台でも若々しい方が多い。時代の変遷と言うような簡単なものでは言い表わせない気がするのだけど、そんなことを思うときふと、祖母の曲がった腰を思い出す。
私が子供のころから既に、祖母は年老いていたような気が、する。私の年齢には既に、片手以上の数の孫がいたせいだけではないと思うけど・・・心の中に在る祖父母の姿は、私に取り「生きた現代史」なのかもしれない。
 ・・・とここまで書いて、思う。
 
 人生に限りがあるなんてこと、ずっと知っていたけど、当たり前だとも思っていたけれど、改めて考えるとすごいことのように思う。何がって、こうして生きていること自体がもしかしたら、奇跡なのかもしれない、と思ったりする。生まれてきたことも、そうなんだけど。
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 私が小学生の頃まで、近所に「焼き場」があった。焼き場、つまり火葬場である。小学校からはその煙突が見え、毎日立ち上る煙と独特の臭いが、当たり前にあった。一緒に住んでいた二人の大おばたちもここで、天まで昇る煙となった。その後、近代的な斎場が市内に4箇所できていて、どこも一見シティホテルと見まごうようなロビーや待合室が有るが、子供のころのそれは、いかにも冷たく悲しい場所であった。
 斎場に続く道は「葬連道(そうれんみち)」と呼ばれ、今も幹線道路に続く間道としてあるが、かつては弔いの列がひっきりなしに続いていたらしい。
 小学校4年生の頃、同じ学年の男性の先生が、担任の代わりに道徳の授業で「煙」に触れた。
 「君らも刻々とあの煙になる日が近づいているんやで~」
 
 大らかで朗らかで、そして厳しい父親のような先生だったと思うけど、そんなことを言っていたのをとてもよく覚えている。その2年前には件の斎場で大おばを見送った鮮やかな記憶があった私にとってこの言葉は、とても鮮烈に響いた。
 クラスメイトの何人かは、
「え~~~っ!!」とか言っていた気がするけど、二人の大おばを既に見送っていた私には(因みに父方祖父の姉と妹、身寄りらしい身寄りがなかったのだろう、父が二人の老後を見たのだった)、ぼんやりとではあるけど、確かなリアリティを感じていたのだった。
 私の、「memento mori(自分がいつか死ぬことを忘れるな、と言う意味のラテン語)」に触れた、古い記憶である。
 母方の祖父母にしろ、二人の大おばにしろ、明治生まれの人たちである。
 昭和の、それも高度成長期に幼少期を過ごしている私たちは、子供と言えども、恵まれて見えただろうな、と思う。少なくとも、命の危険にさらされることはなく、3度の食事と穏やかな夜の眠りが補償されている。
 生き方について、・・・特に女性は、今ほど自由に選べることはなく、自分らしさをどこまでも追うこともできるなんてきっと、夢のまた夢か・・・あるいは、思いもしなかったことだろう。
 
 もしかしたらただ、「命」「血」をつなぐための存在のように感じていたかもしれない。
 大おばたちはそれぞれ、医師の妻であったり、教師であったりしたので、それなりの人生を過ごしたのだろうけど、最期に過ごしたのは私たち家族とであったのだから、波乱万丈、と言えるのかもしれないけれど。
 思えば私の子供時代は、激しい世の中でもあった。日本では戦争はもう終わっていたが、あちこちでゲバルトのニュースがあった。明確に覚えてもいないのは、もしかしたら両親があまり目に触れさせたくなかったのかもしれないが、白黒画面のなかでの東大・安田講堂やあさま山荘事件、よど号ハイジャック事件はさすがに記憶に生々しい。
 よど号に至っては、遠足で行った伊丹空港で、「ただ今『よど号』が離陸いたしました」と言うようなアナウンスがあった記憶がある。それは、ハイジャックのリアルタイムではなく、ハイジャックされた飛行機・よど号(当時は、旅客機自体にJAL123便とかの便名だけではなく、各社がニックネームをつけていたらしい)が、たまたまその時に伊丹を出発したと言う、それだけのことなのだけど。
 ・・・何でやねん・・・。
 アナウンス自体にもツッコミたいとこやけど、それを覚えている私って・・・。まあよほど印象に残った、と言うことなんだと思うけど。
 それはちょうど、大阪万博の年でもあった。私個人のイベントとしては、3歳のときに負った傷の後遺症で、外側に湾曲して尖足となっていた左足の、ADL(Activities of Daily Living・日常生活動作)の向上のために、アキレス腱の伸長手術を受けたという、何とも物悲しい?夏休みの記憶が共にある。美波春夫さんの妙に明るい万博のテーマソングが、記憶の中で今もことさらに鮮やかである。
 それが40年近くも前のことなのである。そりゃもう、アンビリーバボー!!である。私はこの40年、いったいどないしてたんやろ?と思う。あんまり成長していない気がするなぁ。
 しかも明らかに、身体は衰えていると言う厳然たる事実は隠せない・・・。
 ・・・どないしてくれるねん・・・。
 誰にともなく言いたくなることも、まぁ、ないとは言えないな、その殆どが自分の責任下において選んで生きてきたことなのであるけど。
 
 それにつけても私の祖父母たち、大おばたち、いやいや両親の世代に至ってもであるが、私の世代ほどには選べなかっただろうことを、思ったりする。そしてきっと、どないしてくれるねん、とも思わなかったに違いないとも思ったりする。
 刻々と近づいてくる、煙になる「そのとき」。それがたとえ50年先であったとしても、必ずやってくるのだ。
 私は、悲観主義ではない。むしろ結構楽天的だと思う。ありのまま、今の自分を受け容れることができたのなら人はどれだけ楽だろう、と思う。
 ソクラテスは、その弁明のために死刑宣告を受けるがその死を前に、怒らず、悲しまず、ただ当然のこととして現実を受け入れたと言う。
 
 そして先日、息子たちと観た映画「チェ・ゲバラ 39歳 別れの手紙」の、その終わりに近い場面でも、まさにそんな想いが描かれていて、命について、また考えることが増えた、と思っている。
 この星で今この瞬間も繰り返されている、生きることの営み。生まれてきたことと同じように、誰もがいつかはここを去る。
 だからこそ、自分らしく在りたい。
 いつの日もそう思ってきたけれど、今また一層その想いが強くなっている。
 いつかはここを去るからどうでも良い、のではなく、自分を、周りを、だからこそ大切にしたい。ありきたりだけど、一期一会を大切にしたい。
 限りがあるからこそ、生き生きと自分らしく生きられる、とことさらに思う昨今の私なのである。

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