時々、自分の掌を見つめて、人の身体は本当によくできているな、と思うんです。
お腹の中にいる時から、絶え間のない成長を続ける身体。
効率のよい、最高のデザインとも言われる人体。その身体を使うべくして、みんな生まれてくるんですが、命の重みが時に希薄に感じられる、昨今。
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私が生まれたのは昭和35年(1960年)。
テレビも電話もそんなに普及していない時代で、車もそう多くはなく、神戸の街には市電が走っていました。
市電が廃止されたのは私の記憶では妹が1歳くらいだったので、昭和45年ころかな。
今はまったくその面影はないですが、電車の軌道が、広い道を往来していました。
生まれた場所は、知る人は知るその地名、福原。そんな軌道が近くにあった所です。
今では一大風俗街になっていますが、その当時もやはり花街の香りがあったのではないか、と思います。
検番(芸者の置屋)は、まだ最近まであったはずです。
・・・今も、あるのかな?
でもそれよりも、もっと以前は、かの平清盛が福原京を置いた場所でもあります。
生後半年めには、今いる辺りに越してきたようなので、もちろん記憶らしい記憶ではないのですが、身体でその華やかな空気を覚えているような気がするのは、錯覚かもしれないし、それ以上の何かがあるのかもしれないのですが。
とにかく、私にとっては本当の意味での故郷なのかもしれません。
父は、両親を早く亡くしていたため、生まれた目黒を離れ、祖父の姉に当たる大伯母を頼って、神戸に来たようです。
4人きょうだいと聞いていたのに、話題に登場しない叔母・・・父の妹がいるはずなんですが、幼いころに行方不明になってしまっていたということでした。
昭和10年にならないころでしょうか。もしかしたら、女の子なので、売られてしまったかも知れない。そんな話でした。
大伯母は、女学校を出て(母曰く、インテリばあさん・・・ほんの数冊ですが、それを示すような形見の本が私の手元にあるのです)、地元の古い医師の家系に嫁ぎ、その話を聞いたぼんやりした記憶のかけらを集めると、看護師のような業務もしていたようです。
その大伯母・・・おばあちゃんは、夫の死後、子供がいなかったために「子なきは去れ」と、婚家を着の身着のままのように追い出されたと言います。
大伯母の死後、婚家の方が、一度尋ねてきたのを、うすぼんやりと覚えています。
おばあちゃんは、家を追い出された後、福原に店を持ちました。
たぶん戦後・・・だと思いますが、いわゆる赤線が廃止になり、女の子たちの帰る場所がないので、「ハイボール東京」という名の店を開き、そこで面倒を見ていたと言います。
なぜ、そんな店を作ったのか。おばあちゃんの、気が強く面倒見がよい性格はあったにせよ・・・。
私の中ではいまひとつ、繋がらないままだったのですが、つまりは父の妹、私にすれば叔母、おばあちゃんにとっては姪なのですが、さらわれて売られていたとしたなら、こんなところに来るに違いない、その時にいてやりたい。守ってやりたい。そんな想いがあったからだ、と随分たってから聞きました。
おばあちゃんに私は生き写し、とよく言われました。
色白で、しっかりした体格で猫背で丸顔。おばあちゃんは、私のことを「自分の生まれ変わり」と言っていたそうですが・・・自分がまだ生きているというのに。
それくらい、大切にされていたのだ、と、思い出します。
そしてどうやら私は、その気性も継いでしまったような、気がします。
実は、もう一人の大叔母がいて、このおばあちゃんや祖父の妹なのですが、教師をしていたということ、気難しい人だった印象、私のために作ってくれた七五三用の振袖、そして古い絵が、私の心にある思い出の大部分です。
二人の大おばたちは、結婚や子供の縁に恵まれなかったのですが、晩年を私たち家族と過ごしたことで、少しは寂しさが紛れていたのなら、本当に嬉しいことです。
気難しい、小さいおばあちゃんが、それでもせっせと私のために晴れ着を縫ってくれていた。言葉での表現が上手ではない分、想いのこもっていたであろうその着物を、私は本当に好きでした。
実は、その着物に袖を通すのはおばあちゃんの死後なのですが、その日のために伸ばした髪を、母と近くの美容師の資格を持つやさしいおばちゃんが、二人がかりで日本髪に結ってくれた写真が、あります。
少し頬を紅潮させた私が、すまして写っています。
決して鮮やかではない色彩。でも、形には表せない記憶のかけらが、却って鮮明に感じられるような、そんな気がします。
彼女たちが生まれ成長したのは明治から大正にかけての時代。今の私なんて、非国民でしかないよなぁ・・・。とんでもないヤツに違いありません。それでもおそらくおばあちゃんたちは、当時の女性にしては開けていた方なのでしょう。
大きいおばあちゃんの形見にはたくさんの書籍がありましたが、その中の「源氏物語」が大正の初期の物でした。
注釈さえ・・・私が読むには現代語訳が要りそうなくらい。
高校生のとき、ちょうど古文で紫式部の、和泉式部の、とやっていたころだと思いますが、国語の先生に頼まれて持っていきました。
先生の望まれているものではなかったようですが、しかし・・・大変なものを発見されてしまって!!
おばあちゃんの旦那様であった医師が、独身時代におばあちゃんにあてた熱烈な恋文が、挟まっていたのでした。
今で言うなら、トレース紙のような薄い紙に、万年筆で綿々と恋心を綴っていたようで。それを、人の悪い(!)先生が、授業中に披露されたのですから・・・。
もう、勘弁してよ!!っていうくらい真っ赤になったのを覚えています。
自分のことではなかったのですが、自分のことのように恥ずかしかったなぁ。今でも、恥ずかしいという感情は、私にとって最悪の感情、なんですけど。
時々こんな風に、自分のルーツを思い出してみたりするのですが、おばあちゃんたちはどうしても欠かせない存在なのです。
昭和の真ん中あたり、高度成長の只中で、学園紛争の只中でもあった時代に生まれた私。個人の成長と社会の成長が、ある意味一致していたような時代。
この十年、二十年を思うと、その動きも激しくはあるのですが、子供のころからの変遷を思うと、それほどでもないような。そんな気もします。
それにしても。
女に生まれたからには「子供を生むこと」が大切な仕事であった時代に生まれた、二人のおばあちゃんたちは、自分の子供を持たない人生でしたが、私と弟を誕生から、二人それぞれの人生の最後まで見守ってくれた人たちでした。
時代は、彼女たちの人生を、決して肯定することばかりではなかったと思います。
それどころか、理解されることも少なく、もしかしたら生きている意味さえ感じられることが少なかったかもしれない。
幼子と生活することを、若いころには考えることもなかったのでしょうが、彼女たちのそれぞれなりの愛情を、私たちにゆるりと注いでくれていたことを、今になってわかってきた気がします。
そして、今だからこそ、言えるんです。
こうしてどれだけ時を経ても、私の心の中にいてくれて、本当にありがとう。
生まれてきてくれて、ありがとう。私の近くにいてくれて、ありがとう、と。
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「生まれてきてくれて、ありがとう。」
何だか陳腐で、私にとってはとても照れくさい言葉なのですが、だからこそ、言葉にして伝えたいのです。
大切な人に。大好きな人に。
自分の人生を見つめてくれた人に。命をくれた人に。
守ってくれる人に。信じてくれる人に。
あなたがこの言葉を言うとしたら、誰に伝えるのでしょうか。よかったら、そっと私に教えてくださいね。