突然、上海から一枚のCDが送られてきた。
送り主は、僕が中学生の時に、親の転勤の都合で高校に通うため、しばらく我が家に居候していた 親戚の兄ちゃんからのものだった
歳があまり離れていないことや、その陽気な人柄から、兄のいなかった僕にとっては、文字通り兄貴として、いろんなことを教わった。
音楽はその最も大きなものだった。当時、はやっていたフォークソングの流れにのり、兄ちゃんはギターを弾いて、暇さえあればいつも歌を歌っていた。毎日、 兄ちゃんの部屋からは、ギターとともにその歌声が流れ、当時は音楽に疎かった僕に、最新のヒットソングを教えてくれた。自然に僕も音楽を聴くようになり、 今、身近に音楽があるのは彼の影響が大きいと思う。
大学進学して我が家からは出て行ってしまったが、自ら曲作りをしてライブハウスなどで歌うなど、ますますギターと歌に磨きをかけ、音楽とともに学生生活を送っていた。
そんな彼も就職して結婚し子どもが生まれ、いつしか普通のおじさんになり、同じように僕も歳を重ねて、大晦日に顔を会うせる程度の付き合いに変化していった。
ところが、この数年、兄ちゃんの周辺は激変ともいえる出来事が続けておこった。
会社の倒産、親友の死、離婚。
何もかも失ったかのような大きな失望の中で、勤めていた時に取引のあった上海の企業の社長から声をかけられた。日本を離れ、海を渡る決意をするのには、勇気は必要なかったのではないかと思う。その身一つしか残っていなかったはずだから。
そして、兄ちゃんに追い打ちをかけるように、兄ちゃんのお父さんが亡くなる。
僕自身も大変お世話になり、慕っていたその死は、我々親戚に大きな衝撃を与えた。
実の父を失った兄ちゃんにとっての悲しみは想像することができないほどたったと思う。
しかし、こうした激動の流れは、時間と上海という異国の地とともに、大きな変化をもたらしていた。
彼は、昨年の夏、中国人の女性と再婚をしたのだ。
そして、今、手元には、今までの人生で少しづつ作り続けた彼の作った歌を収めた自主制作CDが届けられたのだった。
CDに同封の手紙にはこう書かれていた。
「親友の死 父の死を経て思い描いたことは、とにかく躊躇せずにやってやろうと考えるようになった
CD制作もその一つというか、1番したかったことでした。
」
ブログを始めたという兄ちゃんのページにこんな話が書かれていた。
「今の 厳しい時代の サラリーマン
大企業でもそうだが 特に中小企業の場合
入った会社によっては
大きく伸びる会社もあれば しぼんでしまう会社もあるし
リストラもあるし
転職できても それが吉とでるか 凶とでるかは 紙一重
人生には
登り坂 下り坂 と 別に
もうひとつの坂
まさか・・・・・ という坂があると
以前の 上司の言葉で 教えられたが
おいらの 人生 まさに その まさか・・と
いきあたりばったり
この ふたつの言葉に
代表されるような 感じで 気がつけば
異国で 暮らし 働き 歌をたまに歌う人生に・・・
友が亡くなり 父が亡くなり・・・・
いきあたりばったりでも
生きている間は
たくましく 自分らしく生きていこう」
あなたは今、どんな人生の坂を歩いていますか?
登り坂でも下り坂でもない「まさか」という人生の坂。
その坂は、当初、真っ逆さまに闇の中に落ちていくような状態を作り出すかもしれない。けれど、実は、今までの状況の中では飛躍できなかった、「大ジャンプ」のための「坂」なのかもしれない。
カウンセリングを通じて、大きな困難を乗り越えて幸せをつかんだ方々の話は、まさにそうした「まさか」の先にあるものだった。
今、もし「まさか」と思うような人生にいるとしても、それは人生が新しい展開をじっと待っている「まさか」という坂を 登ろうが下ろうが、その先の角を曲がったら、新たな何かが待っているかもしれないのだ
きっと兄ちゃんが歩いた道もそうだったのではないかと思う。
今、兄ちゃんは上海で仕事と家庭を持ち、週末には上海のライブハウスで一人で、あるいは仲間とバンドを組んで歌を歌っている。
僕は、CDの最初の曲を聴きながら、兄ちゃんが上海の地でギターをかき鳴らしながら楽しく深い彼のバラードを歌う姿に思いをはせた。
その曲の名は「ファミリー」。
兄ちゃんが日本で家庭を営んでいた頃に作られた、平凡な我が家を歌った曲だ。
いろんな事があった兄ちゃんだろうけど、あえて平凡な家族の日常が大切だと歌った この曲をCDの最初にしたのが、なんとなく、分かるような気がした。
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1件のコメント
そっか。
いきあたりばったり。
まさか。
・・・いま、自分にとってそんな感じです。
死を通して感じたこと。
躊躇せずにやってやろう。。。
なるほど。
わたしも、
生きている間は
後悔のない人生を送りたいな
と、思いました。
ありがとうございます。