人の体は、何にも勝るすばらしいデザインである、という話を聞いたことがありますか?
それは外観だけではなく、内臓や骨格といった大きなものから、組織・細胞にいたるまで・・・私たちが母の胎内でこの世界に順応できるような体になって生まれてくるそのプロセスも、誰一人として同じものが無い。
そのこと自体が既にすばらしい自然である、と思うのです。
進化を重ねた私たちの身体は、どんなに優れたヒューマノイド(ヒト型ロボット)でも再現することは不可能、とも言われているのですが、そんな身体を持っていることに、普段はなかなか気づくことはありません。これは、何かの機能が低下していたり無かったりする場合も同じで、普段から実に巧妙なバランスを持っているな、と私は思うんです。
私の愛読書?の中に、「からだの地図帳」「病気の地図帳」(共に講談社)という本があります。
目次や索引を含んで180ページほどあるこれらの本には、細密できれいで、わかりやすいカラーの写真や図が、ほとんどすべてのページに載っているのですが、自分の身体がこんな風になっている、と普段は自覚していないだけに、感心して眺めていたりするのです。
ときおり書いたり話したりしているのですが、私自身、左の足には幼児期の怪我の治癒痕があり、そのことに伴い、少々の不自由さがあるんですが、身体はその不自由さを実に上手にカバーしていて、私の左右のあし(脚・足)のサイズや形に結構な差があることは一見わかりにくいようになっています。
ですが、長年の気づいていない「微調整」は、少々身体に齟齬をきたしていて、その意味でも身体は絶妙なバランスを持っているとも思います。
私だけではなく、何らかのハンディを持っておられる方はどうも、全身のバランスをとても巧妙に保つようになっていたり、足りない機能をほかの器官で(たとえば視覚が不自由な場合には、耳が鋭いといったような)感覚を補っていることも多いようです。
また、身体の感覚や機能だけではなく、すべてそろっているとはいえない状態においての、心の状態は、時に美しい奇跡も生み出すようですね。
そんなことを想起させるような言葉を見つけました。
「私の左のポケットには手を入れることはできないが、ここには支えてくれた人たちのハートが詰まっている。」
片腕を事故で失くしたサッカー選手、フリオ・ゴンザレスの言葉です。
そう言えば最近のニュースでは、ベトナムのもとシャム双生児、ドクさんがやはり、リハビリ医になると報道されていました。
ドクさんの義足つくりに関わった先生が実は、私の幼児期の主治医であったので、ずっと関心を持っていたのですが(それ故にまた、思うこともあるのですが、それはまた別の機会に)、無いこと、もしくは失くした事で、気づくことをさらに大きく育てているように、私は思いました。
幻肢という症状がありますがこれは、失くした手足の感覚があり続けることを言います。
無いはずなのですが、脳が認知し続けるわけです。
これはイメージだけの問題とはいえないと思いますが、説明し得ないことのひとつだと思います。
無いものをあるように感じてしまうし、たとえば痛みや痒みがあってもどうしようもないのでとても苦痛であると聞きます。
身体だけではなく、自分にとって大切なものを失くしてしまったとき・・・喪失感は、とても大きいものかもしれません。そして、失くしたものの大切さや存在の大きさを思い知るのでしょうね。
でもそれ以上に、すばらしい何かが手に入っている事に気づくチャンスなのかもしれない。
手の中にあるときには、当たり前すぎることの多くはこんな風に、失ってそのすばらしさに気づくだけではなく、形を変えて私たちの手の中に戻ってくるものなのかもしれません。
ちょっと忘れていたことを思い出しました(息子の買ったサッカー雑誌に感謝)。
こんな風に感じたり伝えられることさえも、優れたデザインである証かもしれない、と思うのです。