冬の燕

ウルトラマン列車と言うニックネームのある私鉄に、毎日のように乗っています。
私が乗るのはたった2駅なんですが、神戸の中心地と北部を繋ぐこの線に乗らずには、どこにも行けないのです。
大阪に行くのにも、京都にしても、新幹線や飛行機に乗るとしても。
たった2駅、それもすぐに潜ってしまう。その僅かな間の光景に季節を読むのですが、カーブを丁寧に通り抜ける金属音が、そこに色を添えます。
最近は京都にご縁があるのですが、大阪に向かうにつれ景色が変わり、大阪の市街地を通り抜け、やんわり京都の色に変わっていきます。
それぞれの、個性豊かな町並みを、ぼんやりと、流れるままに眺めていると、同じ様に頭の中も流れていきます。
浮かんでは消え、また新しいことを思い浮かべ・・・の繰り返し。何度も土を練って陶器を形作る様なときも有れば、書く度に破り棄てるメモのような時も。
季節は、秋を通り越して街の気配は早々に冬。冬籠もりと言いますが、どこかの町には、あの幸福な王子の足元に寄り添う燕がいるはず。
なんてことを、また滔々とめぐらせるのです。
神戸から京都にへと乗り継ぐ電車のように、趣を変えながら。
それ自体は、つまらないことも多いし、役に立たないことも多いのですが、頭の中の押し入れや引き出しにストックされるのか、文章を書くとき、話すときに、出てくることもしばしばです。
その昔、あんまりぼんやり考えていることが多いので、母に注意されたり、熱でもあるのじゃないかと心配されたことも多々。
ぼんやりさんの自覚が皆無だったのは、頭の中は忙しかったからかもしれないな。
皆さんの周りで、人とペースが違ったり、何を考えているのかわからない、と言う様な方がおられたら、頭の中は忙しいんだな、って思ってあげてくださいね。
日々こんな調子なので、出力しなければいけません、デッドストックになってしまいます。
こんな方は私だけではないはずですね。話すこと、表現することは、自分の中の流れをよどまさないので、新しいことに繋がるんですね。
そして季節も緩やかに、時に唐突に変わっていきますが、取り残された寂寥感に捉らえることもしばしば。
景色にしろ、季節にしろ、そして人との関係性にしろ、表現することは、生きていることの証、と言えるかも知れませんね。
冬の町を通り抜ける電車を見たら、…そこには私がいて、燕のことなんかを考えているかも知れませんよ。

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