ビッグマザー、そして愛だけが残る

こんにちは、三島桃子です。
いつもコラムを読んでいただいてありがとうございます。
こちらのコラムには時々母のことを書かせていただいています。
母への思いの変化は、私自身の内面的な成長のプロセスの記録にもなっていると思います。
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母親の存在は、人にとってやはり大きなものなのだとこの頃実感しています。
おなかの中にいるころ、私たちはへその緒でお母さんとつながっていました。
その頃の母子は文字通り一心同体、お母さんの置かれている状況や、お母さんの感情を、赤ちゃんは共有していると考えた方が自然なように感じます。
その後生まれてからも、多くの場合は生みの母にめんどうを見てもらいます。
母乳を飲ませてもらい、おむつを替えてもらい、抱っこしてもらい…。その時も、へその緒は切れたとはいえ、赤ちゃんにとってはお母さんは自分と切っても切り離せないもの、お母さんの存在が自分の命を守っているのですから、お母さんは自分の命の一部です。
そうであれば、お母さんの状態には敏感にならざるを得ません。自分のおなかが空いて不快になることも、お母さんの元気がなくて心配になってしまうのも、赤ちゃんや小さな子どもにとっては同レベルの話なのかもしれません。
それでも成長とともに、私たちは自立していき、少しずつ心のへその緒も切れていきます。
でも、この心のへその緒は、最後の最後まで、細いけれども確かな強い絆として残るのではないかとも思うのです。
そんな人間は母親の他にはあり得ませんから、やはりお母さんは特別な存在なのではないでしょうか。
でも、お母さんに対して複雑な思い―愛されていないという気持ち、憎しみ、嫌悪感など―があると、この絆が見えなくなったり、絆の存在を否定したくなるのではないでしょうか。あの人とのつながりなんてないんだ、つながりなんかない方がいい、つながりなんかいらない、そんな気持ちになるのではないかと思うのです。
実は、私自身がそうだったのです。
ほんの少し前まで。
いいもんね、別に。お姉ちゃんの方がかわいいんでしょ。人間だからそういうこともあるでしょ。私なんか、やりにくい子って思っているんでしょ。私の気持ちなんかわかろうとしてくれないもんね。
そんな気持ちを感じると、母から生まれたということも認めたくない気分になっていました。
へその緒でつながっていた?なんかやだ。あの人のおっぱいをもらった?うえー、なんか気持ち悪い。
正直、そんな感覚をずっと持っていました。
自分も我が子におっぱいをあげたし、息子に将来そんなことを言われたら、きっとぐさっときてしまいますが…。
でも、私の体には、心地よくおっぱいをもらっていた記憶がしみついているのです。
これも長年認めたくないことの一つだったんですが、私は眠たくなってトローンとしてくると、何と今でも、おっぱいを吸う時のちゅうちゅうを口の中でやってしまうのです。
そうすると安心して、心地よくなるのです…。これ、多分一生変わらないと思います。
きっと安心して、心地よさを感じながら母のおっぱいを吸っていたのでしょうね。
10年ほど前、私自身がカウンセリングのクライアントの立場でした。
カウンセリングを受け始めた理由は何と言っても母のことでした。
当時の私はカウンセラーさんに毎度毎度「お母さんが…」と泣きながらうらみつらみを話していました。
週に一回、約1年間。話して話して、それでも尽きず、2年目は月に一度ぐらいでしたが、母が、と話し続けていた私。
そんな自分の姿を、今、遠くから眺めると、そこにいるのは子どもの私です。
「お母さん、お母さん」と、迷子になって母親の姿を求めてさまよう不安いっぱいの子どもが見えるのです。
そして、今も、こうやってコラムに母のことを何度も書く私。
どうでもいい人であれば、こんなにこだわるわけもありません。どうでもよくないんです。
大切なんです。
母の子どもとしての私は、やっぱり「お母さん大好き!」なんですね。
そのことを抵抗を感じつつも認め始めると、心の中で不思議なことが起きるようになりました。
長年私の中にあった私を責めるような(と私が感じていたのですね)母のきつい目が、「私は苦しい」ということを訴える悲しそうな目に変わり、そしてその下に、私を生んだ喜びを感じている母の目が見えるようになりました。
また、私の心の中にだだっぴろく広がる空間が見え、そこにたくさんの母の象が立っているのが見えてきました。
その多くは、体調が悪くて不機嫌な母、八つ当たりできついことを言う母、私の気持ちをわかってくれない母など、私を愛してくれていると思えない母の姿でした。
でもその中に、数は少ないけれど、体調がいい日に優しかった母、おやつをたくさん作ってくれた母、帰りが遅くなった私を途中まで迎えに来てくれた母もいます。
そしてそこに、優しい風が吹いてきて、私を愛してくれないと思っていた母の姿は、砂の城が崩れていくように、風に吹かれてさらさらと消えていくのです。
そして後に残るのは…私を愛してくれた母の姿だけ。
優しい風は、私が認めることにした母への愛。その風に吹かれた心に残るのは、私に向けられた母の愛。
「私は愛されない子なのだ」と誤解し、その誤解の上に積み上げられた「私を愛してくれない母」の姿。誤解が幻想であるならば、その誤解の上に積み上がった母の姿もまた、幻想だったのかもしれません。
そこまで考えが至った私ですが、煩悩の多い人間のこと、ふとしたはずみで、これまで見ていた幻想が再びよみがえることもよくあります。
愛ではない風が吹き戻してくると、「愛してくれない母」の象も、うっすらと影を取り戻します。
でも、影以上に濃い姿にはならないようです。
そしてすぐ、また優しい風が吹いてきて、影たちは静かに姿を消します。
母は、子どもにとってビッグなもののようです。
どんな母も、我が子にとってはビッグマザーなのです。
でも、そのことを母親自身が知らず、母である自分を小さく扱ってしまった時、母親としての愛を上手に表現できなくなるのではないでしょうか。
う~ん、書いてから気付く。母もそうだったのだろうと。さらに気付く。私も我が子に対してそうなっていることがいかに多いかと(苦笑)。
私もしっかりと心に刻みたい。自分はビッグマザーなのだと。

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