私のこと大事にしてくれないお母さんなんて大っキライ!

いきなり、とんでもないタイトルですみません。
驚かせてしまったのではないでしょうか?!
実はこの言葉、突然私の心の中にやってきて、思い浮かんだとたん、心がスッキリ軽くなったんです。
心理学では、自分癒しを進めていって、最後に残るのが罪悪感だと言われています。
多くの方の中にある罪悪感を一緒に見つめ、自分の中にある罪悪感についても日々考察を続けてきたんですね。
仕事、と言うよりも、単なる趣味でもあるんですけど。
自分の心をマニアックに見つめて行って、自分の罪悪感に深く入り込んで行って、言葉にできる範囲でわかったのは、
「私は両親の役に立たない悪い子だった」
という罪悪感と、そこからもたらされる「私は役に立つことに失敗してしまったんだから、成功できるわけがない。失敗することが私にはお似合いだ」という自己概念がずっと自分を苦しめている、ということでした。
少し詳しく書かせていただくと、以前のコラムでも書いたのですが、私の実家は、小さな食堂を営んでいました。
(今も現役で営業中です♪)
そして、自営業の常だと思うのですが、私が小さい頃は、お金のことやお店のこと(メニューや接客や、新しく購入する機材の事etc…)で、常に二人が喧嘩をしていたり、困っているところをよく見ていました。
それは、正しい子供のあり方(笑)として、当時の私は両親の役に立ちたい、助けたい、そして褒められたい、という気持ちを持ちやすい環境でもありました。
小学生の2~3年生の時からお店のお手伝いをするようになったんですが、どんなにお手伝いを頑張っても、そこのことについては褒めてもらえるけど、両親の喧嘩はなくならないし、お金の問題も解決しない。
だから、私は失敗している、ダメな子なんだ、っていう意識があったようでした。
当然、その当時の私にそんな自覚はありませんでしたが、「失敗してるんじゃないか?」「自分のやり方が間違ってるんじゃないか」「正しいやり方が自分の外側にあるから、それを探さなきゃ」という変な焦りの気持ちはこの頃には既に持っていることに気がつきました。
この自己概念は私の人生の大きなパターンを作り出していました。
それは、いつもいざという時に必ず失敗する、大きな結果を出せない、というものでした。
大きいところでは、
仕事で良い評価を得られそうになったらなぜか失敗してしまう。
恋愛では、お付き合いしている彼と結婚話が出たとたん破局させてしまう。
小さいところでは、遅刻が多い(それも、1分、2分の遅刻)、なんでこんなところで?っていうケアレスミス等。
そして、この自己概念の目的は
『だから、私は愛されないんだ』
ということを自分の中で正当化することにあったようにも思います。
最近、私もアラフォーと言われる年齢になり、周りの友人たちが親になり始め、また、多くのクライアントさんと関わることで、「親側の気持ち・悩み」そして、子供への思いをリアルに知り、感じる事ができるようになってきました。
私はずっと、「目に見える形で」役に立たなきゃいけない、って思っていたんですね。
極端な話、自分が打ち出の小槌を探す旅に出て持って帰ってくることが、私のやるべきことなんだ!というくらい、荒唐無稽な助け方・役に立ち方を望んでいました。
それが、親側の方々の話を聞いていると、親は、子供に守ってもらおう、頼りにしよう、なんて考えてもいない、そんな発想もないんですよね。最初は、それは私の自己概念の土台を崩す言葉なので、あんまり耳に入っていなかったんです。
もちろん、ある程度の理性と社会性を持つ「大人」の私は、そんなの当たり前でしょ?と、頭で理解はしていたんです。
でも、私の中の「子供」の部分では全く納得できていなかったんですね。
けれど、親側の人たちが異口同音に、
子供が無防備でいてくれることが嬉しい。
無邪気な笑顔で笑っていてくれるから頑張れる。
わがままを言ってくれることで助けられる。
って、言うのを聞いたし、
ついさっきまで、八方塞がりでもう打つ手がない、どうしていいのか分からない、なんておっしゃって、下を向いて絶望的な顔をしていたクライアントさんが、お子さんの話題が出たとたん、背筋をしゃんとさせて、きりりとした顔つきで問題可決に向かおうとされる姿もたくさん見せていただきました。
そんな経験が少しづつ溜まってきたのだと思います。
あるセッションの中で、そんな風に溜まってきたものがイメージになって現れたことがありました。
それは、私の後ろに続く、たくさんの人たちの姿。
それは、ご先祖様や、その他の、今の私の礎になってきたたくさんの方々。
そして、私の前には同じように長く長く続くたくさんの人たちの姿。
それは、私の子や孫…と言う存在であり、私の色々な部分を継承してくれる後輩たち。
ずっとずっと続いていく1本の川の流れのようなもの。
その中に自分がいること。
そこにある、たくさんの言葉にならない、温かい愛情。
そういうものが、さぁっと、イメージとなって現れました。
と、同時に、「あんたらの学費稼がなあかんと思ってた時期は気張って働けたわ!」と豪快に笑ういつかの母の顔が浮かびました。
ああ、私は、私の思う方法で親の助けにならなくても良かったんだ。
自分ではわからない部分で十分親の助けになれていたんだ。
そして、私は十分に親からの愛されていたし、その愛情を遠慮せずに受取ってもいいんだ、って、どこかで許可が出たんですね。
それから数日後、散歩の途中で突然出てきた言葉が、タイトルの
私のこと大事にしてくれないお母さんなんて大っキライ!
という言葉でした。
なぜ、母限定なのか?という理由はまだ分からないのですが、
自分の自己概念を作る大きな土台が揺らいで、自分は愛されてるんだって体感できた時に、出てきた私は、とっても駄々っ子でした。
お母さん、もっと私を見て~!
私のことかまってよ~!
ぷうぷう!
って、わがままを言っている、心の中の子供の自分がいました。
自分の中にこんな自分がいたんだ、ってことがわかって、感動の涙を流す、と言うよりも、なんだか苦笑いしながらも、自分自身がとっても可愛く思えました。
そして、びっくりするくらい、心が軽くなったんです。
機会があれば、大きなぬいぐるみを買って、抱いて眠ってみようかと思います。
もうアラフォーだけど、私の心の中にいる、小さい子供のために。
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