高校生の頃から、17年間、私の家では犬を飼っていました。
その犬が亡くなった後、動物を飼うことは一生ないだろう、ましてや、アレルギー体質の私が、猫を飼うことなどあり得ないと思っていました。
しかし、その後、知人に、「都合で飼えなくなったので、飼い主が見つかるまで、しばらく預かってほしい」と頼まれた猫を、引き取ることになったのです。
最初は、「1日2回の餌とトイレの掃除。犬のように散歩もしなくていいし、かまわなくていいし、猫を飼うのは楽だ。」と、“生き物なので世話をする”という感覚でした。
猫を飼い始めて半年たった頃、遊びに来ていた友人に、「面白いね。猫って、飼い主の後を、ついて回るんだね。」と言われて初めて、いつも後ろに猫がいることに気づいたのです。
その時から、世話をしている生き物から、私と共に暮らす猫として、私の中で“感情”が動き始めました。
その後、徐々に猫を飼うことにも慣れてきて、可愛く思い始めました。
しかし、あまり猫可愛がりをしないようにしていました。
それは何故かと言うと、私が、人の子どもに対する親や祖父母の“親バカ”ぶりを恥ずかしいことのように思っていたためです。
何故、親というものは、子どものためになりふりかまわず、疲れもいとわず、子どもに対して接することが出来るのだろうと、なんとも不可解に思っていました。
また、自分の飼っているペットに、高品質な餌、ファッション、遊具、ホテル、美容室、過剰といっていいほどの商品とサービスを、親心をくすぐられるかのように旺盛に消費する飼い主たちの行動が、私には異様に思えたのです。
猫を飼い始めて1年が経ったある日、猫を膝の上に乗せて抱いていると、突然涙があふれてきました。
“ただ、愛おしいなぁ”と思えたのです。
私が猫に感じるように、きっと世の中の親も同じ様に、どんな子どもであれ、存在そのものが愛おしいと思うのだろう。
そして、「ああ、私もかつて、私が猫を抱いているように、私も親に抱かれていたのだ」と気づいたのです。
親バカの“バカ”を、度を越して甘やかすこととだけ思い込み、“夢中になること、好きであることを隠さないこと”という意味もあることに気づくと、なんだか「親バカ万歳!」という気分になってきて、今では立派な“飼い主バカ”になってしまいました。
今は大人になってしまった私たちには、遠い記憶かもしれませんが、私たちは、かつて親に“愛おしい”と思われ、私たちも親のことを“大好きだ”と思った時間が、一瞬でもあったのかもしれません。
そして、親たちはそれぞれの“形”で、不器用ながら愛情を表現してくれていたのかもしれませんね。