京都「俵屋」の思い出 ~そのまんまの心~

 先日、JRに乗っていたら、車内広告の、「そうだ京都、行こう」が目についた。その時、ふと、昔のことを思い出した。
 僕が奥さんと結婚したばかりの頃、僕の祖母と三人でよく旅行にでかけていた。
 祖母は僕の奥さんと相性が良かったので、三人での旅行をよく持ちかけてきて、奥さんもそれに応えてくれて、いろんなところに行った。
 その中で、印象に残っているのは、京都のお寺参りに行った折に泊まった旅館の老舗「俵屋」での出来事だ。
 
 「俵屋」は超有名な京都の老舗旅館だが、国内外で高い評価を受けているのはその接客にある、と言われる。
 いったいどんな接客なんだろうと、僕たちは興味津々でこの宿の門をくぐった。今から10年以上昔の話である。
 僕たちが予約した部屋は最も安い部屋だったのだが、それは二階にあった。 
 ところが、祖母はその時にはすでに膝を悪くしていて、歩くのにも杖をついている状態だったのだが、祖母の勝ち気な性格から、はって二階を上がろうとするのを、俵屋の方は「1階の部屋をご用意しましたから」と祖母を連れて行ったのだった。
 1階の部屋に通された僕たちは、わざわざ僕たちのために用意しなおしてくれたのだと実感しないではいられなくなった。
 なぜなら、その部屋の生け花を新しいものに替えてくれたからだった。
 お客様にはその時の生け花をという心配りだったのだ。
 しかし、噂の俵屋の接客は、そんなところに神髄があるのではなかった。
 「まるで我が家に帰って来たような」と聞いていた接客は、本当にそのとおりで、僕たちの部屋のスタッフの方は、言葉に言い表せない、なんともいえない親しみをいつもたたえた距離と言動で、接してくれる。
 温かく、そして、適度な距離感があった。普通の、ありのままの態度、と言えばいいのだろうか。
 そのことを思い返すと、祖母の口癖のひとつだった「そのまんま」という言葉を思い出す。
 祖母は、人生で大切なのは3つの言葉で言い表せるといつも言っていた。
 その中のひとつが「そのまんま」だったのだ。
 人が、ありのままでいること。ありのままの自分でいること。
 そういう意味なのだと僕は解釈しているが、それは中々に難しい。
 
 僕はカウンセリングに出会う前、この「ありのままの自分でいる」ことを願いながら、あきらめてもいた。
 でも、カウンセリングを通じて、「ありのままの自分」に少しずつ近づいていけたのだと思う。
 今、カウンセラーとして、たくさんの方とお話をさせていただいていて思うようになったことは、人が一番のぞんでいるのは、この「ありのままの自分でいること」のように思う。
 そもそも「ありのままの自分」とは何だろう。
 僕も以前は、それがわからなかった。
 なぜわからないかというと、それは、人は成長していく過程で、たくさんの
重荷や鎧を背負ったり身につけていってしまうので、本来の自分が何なのか自分でもわからなくなってしまうからだと知った。
 その重荷や鎧とは、役割、義務、観念などのことだと心理学では説明する。
 「?しなければならない」「?するべきだ」「?してはいけない」という言葉で表される観念と呼ばれるものは、僕たちを縛ってしまい、そのような言動、ふるまいをしてしまうようになる。
 祖母は、たった一人で身一つで店を作って大きくした人で、その過程では随分、いろんなこと、例えば家や土地やお金にこだわったりしてきたと聞いた。
 しかし、晩年になって、隠居の身になってから、そうしたものよりももっと大切なもの、それは自分が見栄や気負いや様々に自らを装飾して見せることよりも、ただ「ありのまま」でいることの大切さを悟ったのだと思う。
 祖母は、最後まで俵屋の接客について、何も語らなかったので、どんな風にそれを感じていたのかはわからないのだが、僕はそんな風に感じていた。
 カウンセリングを学んだ今、どんな風に感じるのかはわからないけれど、ある種の「ありのまま」の姿だったのではないか、と思いをはせる。
 人は、どんな問題や課題やテーマに直面して、それを乗り越えたり、自分を高めたりしていっても、最終的には、この「ありのまま」の自分を追求していくことになるのだと思う。
 そんな「ありのまま」の姿に気づいていただくお手伝いができたら。
 そうしたカウンセラーになりたいと思った京都の思い出だった。
 
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この記事を書いたカウンセラー

About Author

名古屋を軸に東京・大阪・福岡でカウンセリング・講座講師を担当。男女関係の修復を中心に、仕事、自己価値UP等幅広いジャンルを扱う。 「親しみやすさ・安心感」と「心理分析の鋭さ・問題解決の提案力」を兼ね備えると評され、年間300件以上、10年以上で5千件超のカウンセリング実績持つ実践派。