私は、カウンセラーのお仕事のかたわら、熊本県の女性相談室の相談員をしています。
そこではカウンセリングというよりも、ご相談内容によって行政の窓口や他の専門機関を紹介するのが主なお仕事です。
そんな行政のお仕事をお手伝いしているご縁で、内閣府の東北大震災の被災者女性相談業務のために宮城県へ行ってきました。
私の住んでいる熊本から宮城まで約1,500㎞。相談業務を行う気仙沼までは、さらに150km。飛行機と新幹線を乗り継いで約10時間の大移動でした。
そして、その距離と時間の分だけ、被災地と私の間には、心理的にも隔たりがありました。
被災地から遠い九州に住んでいる私は、震災の様子を映像や報道でしか知りませんし、被災地に親戚や知り合いもいませんでした。
あれだけ大きな震災だったにもかかわらず、正直言って、私にはリアリティが乏しかったのです。
その一方で、震災から一年が経ち、この一年間の復興を伝える、テレビの報道番組を見ては、被災者の方々の言葉や歩んだ道のりに、胸が詰まり涙していました。
だから、被災地に立って、被災者と対面した時、いったい私はどんな感情を感じ、どんな言動を取るのだろうと、自分でも全く想像がつきませんでした。
そして、3日間という短い滞在期間で、一体私に何が出来るのだろうと、様々な不安を抱えていました。
気仙沼駅に降り立つと、目の前には海が広がっているのかと思っていました。
しかし、気仙沼駅は、山間にあり、私の泊まった駅前のホテルからも、被災地の様子はうかがいしれません。
地理で習ったリアス式海岸の地形そのもので、海岸沿いのわずかな平地以外は、急な斜面と山地が連なっています。
したがって、現地に到着しても、ここが被災地だとの実感がわかず、明日からの相談業務にどう対応したものか困惑するところでした。
大変有難いことに、友人が私の気仙沼行きを知って、「気仙沼に友達がいるから」とつないでくれました。
現地に前日入りした夕方、気仙沼の友達が、被災地を見ておいたがいいだろうと、車で案内してくれました。
急な斜面を下りていくと、徐々に平地が広がってきます。
すると、突如目の前の交差点の信号の横に、陸上に在るはずのない大きな船が現れました。
みなさんも、テレビの映像などでご覧になったことがあるかと思いますが、330トンもある漁船「第18共徳丸」です。
その光景を目の前にして、息をのみましたが、震災当初の瓦礫はすっかり取り払われて、建物の基礎だけとなった更地に、違和感を感じるものの、まるで夢の中にいるような感じがしました。
気仙沼で2日、南三陸町で1日、電話相談に当たったり、仮設住宅の集会所での茶話会に参加して、被災者の方々とお話しする機会がありました。
また、友達や現地の相談員の方々、移動のために乗ったタクシーの運転手さんなど、様々な人から、話を聞くにつれて、ひしひしと被災の現状が伝わってきました。
震災からやがて一年半が経過しようとしていますが、被災者の状況も様々です。
震災当初に比べると、被災者の経済状況、生活状況、そして心の状態も、個人差が大きくなってきているようです。
特に、対人関係の問題では、この被災により、親戚との同居、ご近所との関係、仮設住宅でのプライバシーの問題など、新たな問題が生じたり、これまで向き合わずにいたこと、やり過ごしていた問題が表面化してきているようです。
それでも、東北の人は、我慢強く、弱音を吐くことも少なく、いまを懸命に生きる姿に、たくましさを感じました。
しかし、ある仮設住宅を訪れた時のことが、私には忘れられません。
仮設住宅の集会所で、ボランティアの方が、自治会長さんに届け物を渡しているのが目にとまりました。
どうやら、関西の方からボランティア団体を通して、プレゼントが届けられたようです。
ボランティアの方が、「写真を1枚いいですか?」と自治会長さんに言っています。
自治会長さんは、あまり気乗りしない顔で「こうやって、後ろ手に持って映ってもいい?」と皮肉っぽく言いながら、しばらくしてから写真撮影に応じていました。
タレントさんがプレゼントを手渡されてニッコリしているような、その写真撮影の光景に、私の心はとても痛みました。
おそらく、この1年間で、自治会長さんは何度となく、このような写真撮影に、繰り返し繰り返し応じてきたのだろうと。
私が滞在したわずかな時間の間だけでも、行政関係者が入れ替わり立ち替わり、仮設住宅を訪れて自治会長さんに現状をたずねます。
届け物も、全国から届きます。
それらはみな、被災者の方々をサポートするための善意で行われている事なのですが、その対応に疲弊している様子がうかがえました。
ちょっとお腹立ちの自治会長さんに思い切って、先程の写真撮影の光景に胸が痛んだ事を伝えてみました。
自治会長さんは、「全国のみなさんには、言葉では言い表す事が出来ないほど感謝しているのです。
お預かりした皆さんの善意を、確かに渡しましたということで写真を撮っておられるのでしょうが、正直言って、そこに押しつけがましさを感じてしまいます。
私たち被災者にも自尊心があるのです。
そっとしておいて欲しいと思う時があります。
」と話してくださいました。
時として、私たちは、そこにどんなに好意や愛情や善意が込められていたとしても、それを受け取る余裕のない時もあります。
また、どんなに好意や愛情や善意を込めて行ったとしても、時には相手を傷つけることもあるのだと。
そんなことを、改めて、そして痛切に思い知らされた瞬間でした。
そして、それでもなお、好意や愛情や善意を止めずに、相手の状況を鑑みながら支援していくことが大事なことではないかと思いました。
2件のコメント
「そっとしてあげる」ってことも与えることなんだって伝えてくださってありがとうございます。
自分の想いと同じでほっとしました。
ともさん、コメント、ありがとうございます♪
ともさんがおっしゃるように、何かを与えるだけが愛情ではなく、関心を持ちながら見守ることも愛情ですよね。
相手を“信頼”しているから、見守ることができるのかもしれませんね。