親のせいにできなくなった日

三島桃子です。
いつもコラムを読んでいただいてありがとうございます!
今年の春頃のことです。
私はうろたえていました。
「どうしよう…、困った、困った…」
何が困ったのかというと、「自分の様々なことを親のせいにできなくなった」のでした。
長いこと、自分の身に起きたことや、自分の考え方や感じ方のことを、親のせいにしてきました。
「親がああだったからこうなったのだ」と。ここ数年、親を責める気持ちは小さくなってきていましたが、それでも「もし別の親に育てられていたら」などと思う気持ちはありました。
それが、まあ私なりのプロセスを経て、「父も母もよくがんばってくれたな~」「大事なお父さんお母さんだな~」「私は二人にとても愛されているんだな~」などと感じるようになり、同時に、「あの時親がああいうことをしたから」とか「あんなことを言われたから」とあれこれ考えていたのが、すうーっとどこかへ消えていってしまったのです。
もちろん、ひとつひとつの記憶をたどると、「あれは子どもにとってつらかったな」と思うことは数々ありました。
けれども、私の親も余裕のないぎりぎりの精神状態の中で、あれが精一杯だったんだろうな、と思うと、責める気にもならないし、そのことにこだわるだけのものを見いだせなくなったのです。
そして、ずいぶん気持ちがラクになりました。
親のことを思い出しては心の中でいろいろな気持ちがからみあってなんだかモヤモヤ~、ということがほぼなくなったのですから。
いつかこんな日がくることを待ち望んでいました。
その時が来たら、どんなに気持ちが晴れ晴れするだろう。そしてその時の自分は才能にあふれ、周りの人と豊かなつながりを持ち、輝いているのではないか。そう思っていました。
ところが、気持ちはラクになったものの、私はうろたえていました。
だって、私は相変わらず天然で、へなちょこタイプで、一度にひとつのことしかできない不器用なタチで、デリケートで、取り柄といったら心理オタクということぐらいで…。もちろん、ずっと以前の「恨みます~」だった頃と比べると、体調を崩すことは少なくなったし、血色は良くなったし、もやがかかったようだった頭もスッキリしているし、人前でガチガチになることもなくなったし、なんとなく幸せな毎日だし、「30代の頃より若い!」とみんなに言われるし…(30代の頃が老け過ぎてたんでしょうけど)。だけどやっぱり、別人になったわけではないのです。
苦手なことはやっぱり苦手。デリケートなところはやっぱりデリケート。まあこのデリケートさが私の才能なんでしょうけど…。
今までうまくいかないことがあると親のせいにしてきた私。でも今、親のせいにするという発想がなくなってしまって、ということは、うむむ、すべては自分が引き受ける感じになるのかな?苦手なこともたくさんあるこの私が自分なのだ、というリアルさを受け入れなくてはならないのかな?
そ、それはなんか抵抗がある…。と、私はうろたえていたようです。
カウンセリングの中などで、「痛みの下には才能がある」とよく言われます。
初めて聞いた時にはたいていの人が「はあ?意味がよくわからない…」とか、「ピンとこないけどそうなの?」と感じると思います。
でも同時に、カウンセラーがそう言うのだから、自分の痛みが癒された後にはその痛みの下に隠れていた輝かしい才能が花開き、素晴らしい理想的な自分になれるのでは、という思いを抱くことも多いようです。
私自身そうでした。
だから、あれこれ親のせいにしなくなったものの、以前と変わらない自分自身をどう受け止めたものかとうろたえたのです。
でも、実際は「痛みの下には才能がある」というのは、そういうことではないようです。
確かに、痛みと才能には結びつきがあると思います。
人を助けるということに関してセンスのある人は、「うまく助けられなかった」と感じた経験を痛みとして抱えてしまうことがありますし、話すことに才能がある人が思う存分しゃべることを許されない状況で過ごす経験をした時に、ひどく苦しい思いが記憶に刻まれてしまうという場合もあります。
教える才能がある人が教師を目指しながらいろいろな事情で夢がかなわなかった時に、病気になるほど落ち込むこともあります。
「やるべきことをできなかった」「やるべきことをやっていない」という感覚が、私たちにとっては意外と強い痛みになるんですね。
では、その痛みが癒された時、才能がぱあーっと開いて素晴らしいことになるか、と言えば、そういうドラマチックなものではないようです。
才能や魅力はもともとその人にそなわっていて、その人が自然に生きている時、自然に発揮されるものなのです。
また、自分の才能や魅力は、自分にとっては当たり前のところがあって、「え?これが私の才能?魅力?そんなたいしたものではないと思うけど…」という場合も多いわけです。
才能とか魅力とかいうものは、周りの人が勝手に感じてくれるものなのです。
自分では何の実感もない場合も多々ありますし、それでいいんです。
痛みが癒されると、肩の力が抜けて、自然で素直な自分になれます。
その時、確かにあなたの才能や魅力は痛みを抱えていた時より発揮されやすくなるでしょう。でもそれはやはり自然な流れの中で静かにじわ~っと起こること。けっこう地味なんです。
でもちゃんと幸せや充実感を感じられるのも確かです。
癒された瞬間に才能や魅力が開花するというよりは、もともと自分の中に咲いていた才能や魅力―欠点だと思っていた部分も含めて―が生き生きとしてくる、という感じかもしれません。
うろたえた春が過ぎ、初夏から真夏へとめぐる日々の中で、私の心は少しずつ次のプロセスへとシフトしていきました。
私には苦手なこともあるし、すぐしょんぼりしてしまうし、体は丈夫な方ではないし、だらだら過ごすことも多い。あわてん坊でおっちょこちょいでミスだってする。でも、それでいいじゃん。
こういう私の中にも、ちゃんと光はあるし、その光の輝きは、誰に劣るものでもない。どの人の中にある光も、同じだけの輝きを持っているんだろうな。
私が、神様に与えられた自分を素直に受け入れ、深く考えずに単純に「自分」でいる時、周りの人たちは私の中に「才能」や「輝き」を見てくれるのだろう。そして、自然に私から何かを受け取ってくれる。私は自然に与えていることになる。そして自分もまた、周りの人からいつの間にか何かを与えられている状態になるんだろう。
こんな感覚が次第に私の中で結ばれていき、親のせいにできなくなったことにも慣れてきた今日この頃。
もちろん、日々の小さな悩みはたくさんあります。
小さくない悩みもあります。
眠れない夜もあります。
だけど、やっぱりいろいろなことを「親のせい」にしていた頃とは安定感が全然違います。
得体の知れない怖れと不安。愛されていないという絶望感や足元が崩れそうな孤独。息ができなくなりそうな苦しさ。今はその代わりに、自分の足で立っている感覚と、でも一人ぼっちではない心強さがあります。
さあこの先には何が見えてくるのでしょうか。楽しみです。

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4件のコメント

  1. 自分のことが書いてあるみたいに一致している気持ちが沢山沢山あって、びっくりしました!!
    私も自分を振り返ることができました。
    それに、これから、どうなっていくのかな?って思ってました。
    今もこれからも幸せを噛み締めながら生きていきたいです。

  2. 私は、三島さんの、ほんわかした、押しつけない感じが好きです。
    それで、いつも安心してお話することができます。
    なので、私は、三島さんの「才能」を受け取っているのだと思います。
    私も、長いこと、天然ボケな自分が嫌でした。
    しっかりしなきゃって思ってました。
    でも、私が三島さんを素敵だと感じたように、私の天然な部分に魅力を感じてくれる人が、本当にいるのかもしれないと改めて思ってみたりしました。
    ありがとうございます。

  3. aisさん、コメントをいただきありがとうございます!
    人の心って不思議ですよね。一人ひとりいろいろ違う事情を抱えているのに、案外同じようなことを感じていたりするんですよね。
    私も幸せを噛み締めていきたいと思います。
    お互いこの先のプロセスも楽しみですね!

  4. 花さん
    「ほんわかした」という感じのことは時々言っていただくのですが、本人まったく自覚ないんですよね~(笑)
    でもきっと、周りの人たちは私にそういうものを感じてくださるんですね。本当に、魅力ってそういうものなんだなって、花さんのコメントを読んで改めて思いました!
    コメントありがとうございました!