カウンセリングの現場では、変わりたい、変化したいという声もすごくたくさんお聞きします。
もちろんそれは素晴らしい事だと思いますし、そうやって実際により良くなっていく人達がたくさんいる事も事実です。
でも、私個人としては、変化し、より良くなるだけでなく、変わらない、ずっと一緒ということだって、すごく価値のあることだなと思っています。
例えば、私のおばあちゃんは、私が物心ついたときから優しいおばあちゃんで、90歳で亡くなるまで、ずっと変わらない優しいおばあちゃんでした。
九州にある母方の実家も、何年か前にやや増築された以外は、毎年毎年何にも変わらない、田舎の一軒屋です。
毎年毎年、お盆か正月に行くたびに、何も変わらない風景と、何も変わらないおばあちゃん。何も変わらないから、ほっと安心出来るのではないかとも思いました。
かくゆう私も、小学校、中学校の友人などに言わせると、ずっと変わらないね(天然だね)と言われますし、親戚の人からは、幼稚園の時からずっと変わらないねと言われた事もあります。
そういう意味では、私はものすごく頑固な性格なのかなとも思います。
こんな事を考えておりますと、なんだか昔が懐かしくなり、私が小学2年生まで住んでいた場所にふと行きたくなり、日曜日にふらっと見に行ってきました。
そこは名古屋市にある団地なのですが、よくよく考えたら、引越しをして以来、もう20年以上訪れていませんでした。
ナビで調べると、そこは車でわずか20分ほどで、今まで何度もそばを通り過ぎていたような場所でした。
その場所についてみると、途端に当時の事をたくさん思い出しました。
初めて自転車に乗った場所、猫に追いかけられた場所。
お祭りの時に出店の並んだ場所、友達が登って落ちた桜の木。
それらの場所は、記憶の中でいつのまにか別々の場所になっていたのに、実際に行ってみると、全てが同じ敷地内の一角に過ぎなかっかので、改めてこんな配置になっていたんだなと知ることが出来ました。
当時は巨大に見えた13階建ての建物も、今見ると、やや大きめのビルにしか見えません。
見上げるほど高かった壁も、今となっては顔一つ飛び出すような高さなので、私はまるでミニチュアの模型を見ているような気分でした。
その場所は、3棟の建物が、ロの字(1棟がくの字に折れ曲がっているので、3棟で四方を囲んだ形になっています。
)に配置されていて、中央に大きな公園があるのですが、その敷地内と、歩いて3分の小学校までの道のりだけは、はっきりと覚えているのに、それ以外の信号を一つ超えた向こう側は、何の記憶も蘇りませんでした。
当時の私の行動範囲は、団地の敷地内と、小学校までの往復(抜け道ひとつ含む)だけだったんだと思います。
今思えば、本当に小さなわずか500m四方くらいの範囲の中で、明日はこの木の下に行ってみようとか、団地の最上階に行ってみようとか計画を立てながら、大冒険をしていたんだなと思います。
小学校も外から概観だけ見たのですが、小学校の建物としてはお洒落なオレンジ色に塗られた校舎もそのままで、当時の感覚よりもだいぶ小さく感じる意外は、記憶の中の建物とあまり変わってはいませんでした。
そして、そうやって小学校の建物を眺めてみると、また、この学校の中で起こった様々な出来事が蘇ります。
例えば先生が企画して、教室で行った駒回し大会とか、この学校での最後の日の事とか。
ありきたりなんですが、夢中になった経験は、どれだけ経っても色褪せないものなのですね。
ところで私は、8月のお盆に、本当に久しぶり(10年以上ぶり)にお会する事が出来た方がいました。
さすがに10年も経っていると、もう私の事は忘れているのではないかとか、大きく変わってしまって、もう私とは合わない人になってしまっているのではないかとか、不安で一杯になったりもしたのですが、10年経も経っているのに、見た目もさほど変わりないし、優しくて、明るい人柄なんかも全然変わっていなかったりしました。
10年たっても変わらないから、会ってすぐに話が弾んで、昔の気持ちに戻れたりもしました。
本当は、もちろん成長して変わっている部分もあると思いますが、何かしら本質のようなものは何も変わらないか、もしくはより磨きがかかって、よりその人らしさが発揮されるのかもしれません。
何も変わらない。
ずっと変わらない。
変化の激しい世の中で、変わらないことの価値も見直したいなと思いました。
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