東北地方太平洋沖地震が起こってからでしょうか、「絆」という言葉をよく耳にし、目にするようになったなぁと感じていました。
そんなときに、ある一冊の本を読んでいる中で、「絆」という漢字には、<きずな>という読みかたと、<ほだし>という読みかたがある、ということを知りました。
ほぉ~と思って、辞書を引いてみると…
<きずな>とは。
人と人との断つことのできないつながり。離れがたい結びつき。
<ほだし>とは。
人の心や行動の自由を縛るもの。自由をさまたげるもの。
手かせや足かせ。
<きずな>にはポジティブな響きがあるけれど、<ほだし>となると、意味的にネガティブなものになるのだなぁと知りました。
同じ漢字なのに、読みかた次第でこうも受ける感じが変わるのかと、とても興味深かったのを覚えています。
するとその本には、さらに興味深いことが書かれていました。
「<ほだし>(束縛)なくして、<きずな>はあり得ない」と。
えぇ~!と思いました。
できれば、ネガティブな感じを持つ<ほだし>には関わらずに生きていけたらいいな、と思ったからです。
<きずな>は美しい感じがするけれど、<ほだし>はというと、あまりそう思えない。でも、この本によると、「<ほだし>なくして<きずな>なし」なのかぁ…と、やや不満を持ったことを思い出します。
それでも気になる文章だったのでしょう、私の頭の中に、この言葉はずっと残っていました。
そしてある日、「あぁ、こういうことなのか!」と、この言葉が腑に落ちる出来事が起こります。
それは、特別なときに起こったのではなく、とても平凡な日常の中で起こりました。
今年のお正月。
震災で全壊した家が復活したこともあり、その新しい家で過ごすことになっていました。
今回は、夫が長いお休みを取れたこともあり、1週間ほどの、私たちにとっては長い帰省となりました。
実家に帰ることを思うだけで両親との<きずな>を感じられました。
いざ帰ってみると、娘(両親にとっては孫)のために揃えられたグッズ、食べ物がたくさん!年に数回しか帰ってこない私たちのための寝具一式や、荷物入れの棚まで揃えてくれています。
私たちが帰ってくるのを本当に楽しみにしてくれているんだなと、やはり<きずな>を感じ、胸がギュッと熱くなりました。
新しい実家は、雰囲気や匂いは新しいものの、やっぱり両親色の家になっていて、私にとっては居心地がよく、娘も広い家で縦横無尽に歩き回っていて楽しそうで、「あぁ、やっぱり実家があるっていいなぁ~」なんて感じていました。
ところが、です。
実家に帰って何日か経つと、朝はいつもより早く起きなければならなかったり、夕飯やお風呂のタイミングが違っていたり、ということが煩わしくなってきます。
最初の何日かは、実家のやり方に合わせるのも全然平気なのですが、実家にいることに慣れると、良くも悪くもだんだん気を遣わなくなって、実家のやり方に合わせるのが面倒になってきます。
それで、自分のやりたいようにやりたくなってしまうのです。
そして、このときに感じていたものが<ほだし>なのでした。
まさに、自由に動きたいという自分の気持ちや行動に、両親(のやり方)がブレーキや変更をかけてくる、という感じです。
この感覚、たしか昔も感じていたことがありました。
自分がまだ子どもだった頃、壊れる前の実家に、両親やきょうだい達と住んでいた頃。私が主に感じていたのは、<きずな>よりも<ほだし>だったのかもしれないなぁ、と思いました。
私にとっては、「~しなければならない」が多すぎて、早く家を出て自由になりたいと思ったものでした。
大学に進学するのに合わせて東京に出ることになり、一人暮らしをすることになって、まさに自由を謳歌していたように思います。
と同時に、実家に帰るのは年2~3回となり、たまに帰ればお互い良い意味で気を遣うので、<ほだし>を感じることなく気分の良いまま過ごしていました。
そうすると感じるのは、<きずな>なんですよね。
遠くにいても両親が自分を思っていてくれる、たまに帰ればすごく歓迎してくれる、すごく<きずな>を感じます。
私にとっては、実家⇔東京という物理的な距離が、<ほだし>を<きずな>へと変えてくれたようでした。
そう思うと、たしかに、「<ほだし>(束縛)なくして、<きずな>はあり得ない」という表現はしっくりきます。
私の記憶の中で、親の愛情は、<ほだし>からスタートしてるからです。
でも、自分が成長して、お互いに良い距離感ができたときに、それは<きずな>へと変化しました。
また、自分が親になってみて分かることもあります。
私の母親は、それはもう心配性なのですが、それによって強力に守られてきたことも事実なのです。
昔は、その心配性を<ほだし>に感じ、鬱陶しく思ったこともたくさんありましたが、今なら、それが母の大きな愛情であったことが分かります。
自分が大人になって振り返れば、昔感じた<ほだし>は、<きずな>の証だと解釈が変わるわけです。
私もおそらく、自分の娘に対して心配性を発揮することがあるでしょう。なにせ、母の娘ですから(笑)。
すると娘にとっては、これから、私からの愛情が<ほだし>のように感じられることも多くあるかもしれません。でも成長していく中で、それらが<きずな>へと変化するときが来るといいなぁ、娘を支える<きずな>になるといいなぁ、なんて思えます。
たとえば皆さまも、日常の、人との関わりの中で、<ほだし>を感じることが多くあるかもしれません。しかし、この<ほだし>があるからこそ、<きずな>を感じられるようになるんだと思えると、<ほだし>も悪いものじゃないと思えて、楽になれるかもしれません。
「<ほだし>(束縛)なくして、<きずな>はあり得ない」という文章を読んだ瞬間は、「え!ヤダ~!」としか思えなかった私ですが、<きずな>だけを感じたいと思っているよりも、日常の中で<ほだし>を感じたときに、「これがあるから<きずな>が感じられるのね」と思えたほうが豊かだな~、人生楽に生きていけるな~と、今は思います。
【参考文献】大平健(1995)『やさしさの精神病理』岩波新書.