このコラムを皆様が眼にされるころは
新年を向かえてもうすぐ2月の声を聞く頃でしょうか
私がこのコラムを書いているのは
大掃除の準備を視野に入れ始める12月の半ばになります
この頃 手元に届き始めるのが
今年に家族などを亡くされ喪に服するために
「喪中のために新年のご挨拶を失礼させていただきます」
と言う一文が書かれた年賀欠礼状いわゆる<喪中のお葉書>です
そこにはいつも年賀状で新年の挨拶をさせて頂いている友人知人のお名前に添えて
お亡くなりになられた方のお名前や年齢が記されていることもあり
そこに見えてくる家族の歴史や時の流れに思いを馳せながら
私も作ったなあと2年前に作成した自身が投函した
<喪中のお葉書>を思い出していました
当時の私は<喪中のお葉書>に宛名を書きながら
喪中のお知らせを受け取って驚かれるかもしれないなあ
連絡してほしかったって思う人も居るだろうな
といろんな事を考えながらも
なにより<喪中のお葉書>を送ってしまったら
皆から年賀状が来ないのがなんとも寂しいなあと感じていたのです
元旦の朝 ポストを見に行くのが待ち遠しかった子どもの頃の感覚は
今もあるんだなぁと ちょっと気恥ずかしさも感じながら
繋がりのある方の新年のご挨拶のなかに
1年に1度の集合写真の中の子どもたちの満面の笑顔や
旅行先での楽しそうな写真やこだわりのイラストなど
印刷面の中に見つける手書きのメッセージは
私に向けられた特別な思いを感じてやはり嬉しいものです
ここ何年かは年賀状が唯一の交流になっている友人たちは
その新年のお知らせの中に1年間にあった出来事が垣間見え
わずかかもしれないけれど<今も繋がっている縁を改めて確認する>
きっかけでもありました
亡くなった母はしんみりするよりも楽しくて明るいことが好きでした
だからと言うわけでは無いですが
私が<喪中のお葉書>のことで物悲しさを感じているのを見たら
「ちょっとくらい楽しいのも ええんとちゃうか?」
と今にも耳元で囁いてきそうです
しかしながら当時の私は<喪中のお葉書>を作るとき
年賀状への<今も繋がっている縁を改めて確認する>私の思いを
諦めながら作っていたのだなあと思います
私が葉書を投函し終わった数日後に友人から1通の<喪中のお葉書>が届きました
その友人も家族を亡くし喪に服している事が書かれた文面の余白に
手書きでメッセージが添えられていました
「新年のご挨拶はご遠慮させていただきますが
もしも良かったら年賀状をいただけませんでしょうか
皆様の近況をお知らせ頂けたら嬉しいです」
これを目にして一瞬驚きました
年賀状をいただいてもいいの?
そう伝えてよかったの?
世間的には無礼にならないの?
喪中なのにそれって許されるの?
こんな思いが溢れかえってきました
またその思いを抱えながらも
ああ なんて 素直な思いなんだろう と
この文章を読んで顔がほころんでいる私が居ました
こんな風に言われたら
私なら遠慮しないで年賀状を送るでしょう
そして「連絡ありがとう!また是非逢いたいです!」と
感謝の言葉のメッセージを添えてしまうと思います
またこれを読まれた方でも
喪に服していることへの配慮をされて
年賀状を出さない方もいらっしゃるかもしれません
どちらでも<喪中のお葉書>を受け取った方が
どうされるのかを選ぶことが出来るのです
年賀状を通じての<今も繋がっている縁を改めて確認する>という私の思いを
自分が喪に服していても叶えることができますね
私は<喪中のお葉書>をお送りすることで
次の年の年賀状まで交流がなくなってしまう人も居り
自分から唯一の繋がりの確認を自ら絶つような
そんな「儀式」にしていたことに気付いたのです
形式にとらわれすぎず
自分の思いを素直に相手に伝えることで
私のしたかったことへの可能性を絶たなくとも良いのです
この気付きをくれた友人には
年賀状に「ありがとう!」と添えて
送ることが出来ました
思いを素直に伝える
上手くできないときもあるかもしれません
それでも思いを絶つ事よりも
伝えていくことで繋がりを見出すことが出来るかもしれませんね