あの子たちが教えてくれた愛と罪悪感

学生時代によくボランティア活動に参加していました。
ある時、放課後の障がい児の遊び相手になるという活動に参加しました。
療養も兼ねたその施設では、親元を離れて暮らす彼らの姿がありました。
平日は学校が終わると、仲間たちと寝食を共にする施設へ戻ります。
週末になると親御さんが迎えに来て、それぞれの自宅で過ごすのです。
平日、学校が終わってから夕食までの時間を、私たちボランティアが
サポートして一緒に遊んだり勉強したりしました。
子どもたちは障がいをもっているとはいえ、そんなのおかまいなく
とっても元気で力いっぱい走り回ったり、叫びまくったり、
笑いあったり、ときにはケンカになったり。
やんちゃな子もいれば、大人しい子もいて、
障がいのない子と何ら変わりない「子ども」の姿を見せてくれました。
彼らは皆、最新のゲーム機やかわいいキャラクターグッズを
たくさん持っていました。
まるで、親が甘やかしすぎているのではないか、と思うほどでした。
そんな光景を見て、どうにも腹立たしい気持ちになってしまったのです。
それはなぜか・・・?
障がいがあるために何でも買ってもらえているように見えたからなのです。
私は障がいもなく、有難いことに病気もなく健康な体をもっています。
しかし、障がいのある彼らの姿が「羨ましい」と感じたのは正直なところです。
健康な体と障がいとを引き換えるわけにもいきませんし、
ましてや障がいを羨ましいと思うなんて口が裂けても言えませんでした。
でも本当は、障がいがあることを羨ましがっているのではなく、
親から気にかけてもらえていること、かわいがってもらえていること、
大切にしてもらえていること、いつまでも手をかけてもらえていること、
こんなことが羨ましかったのです。
しかし、今振り返ってみると・・・
彼らの両親がいかに自分たちの子どもに対して罪悪感を感じていたか、
ということがよくわかります。
障がいのある体に産んでしまったことを責めているからこそ、
離れて暮らす親は何もしてあげられないことを責めているからこそ、
それを詫びるように欲しいものは何でも買ってあげていたのではないか、と。
どうか自分たちを許してくださいといわんばかりに。
そんな気持ちの込められたゲームやおもちゃを受け取っていた子どもたち。
でも、全くそんなことはおかまいなしだったように思います。
子どもたちは親の愛しか受け取っていないようでした。
大切にされていること、離れていても愛情をかけて育てられていること、
親の愛をちゃんと知っていたのではないかと思うのです。
彼らに対して勝手な罪悪感を抱いているのは私のほうだったと、
今となってはそう思います。
そのことに気付いたとき、私自身も親から愛されていたことを
感じられるようになりました。
不思議なものですね。
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