痛ましい事件、事故、出来事があった時。
もし、そこに意味があるとしたら、という問いは、簡単に言っていいものではありません。
そこに関係する方々にとっては、そうした問い自体が苦しみになるからです。
けれど、そうしたことを踏まえた上で、あえてその問いを考えてみることが許されるとしたら。
そこには、人の心の中にある「愛と優しさ」に気づく機会と考えることはできないでしょうか。
もし、「愛と優しさ」がなければ、苦しみや悲しみを感じる出来事が起こった時に、何も感じないはずです。
人は、自覚できない場合も多いけれど、自分のことを冷たいとか、価値がないと感じているようです。
そうした私たちの価値を思い出すことで、自分にも誰かにも優しくしていける、きっかけにしていくことができるかもしれません。
◎リクエストを頂きました◎
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テーマをリクエストさせて頂きます。
「まるで好意的な意味を見出せない事象についての捉え方」
人生で起こる事の大半については、試練、修行、警告、等、自己成長に
繋がる解釈として捉える事が出来ます。
しかし、世の中で起こる出来事の中には、そうした解釈をすることが難しい、
痛ましい事件、事故、災害などというものが存在します。
これらは自己成長につながる、という楽観的な捉え方すら出来ません。
宜しければ、好意的解釈を教えてくださいませ。
(一部リクエストを編集させていただきました。)
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痛ましい事件、事故、災害などが起こった時。
私たちは、とても辛い気持ち、いたたまれない気持ちになります。
もし、そこに何か意味があるとしたら、と考えることができたとしたら、それはどんな風に見ていけばいいのでしょう。
最初にお断りさせていただきたいのは、痛ましい事件、事故、災害などについて、思いを馳せる時、とても重要なのは、その当事者、関係者、近しい人達など、なんらかのつながりがある方にとっては、意味があるという問い自体が、苦しみとなる、ということです。
また、犯罪などを起こすことは、許されないことです。
苦しみの渦中にある方のことを思えば、その問いを設定していいのか、と思います。
まずは、そうした前提を決して忘れてはいけない、ということを自戒を込めて踏まえた上で、このお話を書かせていただきたいと思います。
辛く悲しい出来事が起こった時。
それを見ている私たちが「意味がある」と感じられる何かがあるとしたら。
それは、
「私の心の中には、人の心の中には、愛と優しさがある」ことに気がつくことができる
ということなのではないか。
そう、私は思います。
この世に起こる出来事には、人それぞれ、いろんな見方があるでしょう。
いろんな見方、感じ方があっていいと思います。
その中で、ある出来事に対して、誰かが「痛ましい」と感じた時。
そこには「愛と優しさ」があると私は思うのです。
なぜ、「痛ましい」と思うのでしょう。
なぜ、「悲しい」「苦しい」と感じるのでしょう。
それは、その人がもつ心の中に「愛と優しさ」があるからです。
もし、誰かを思いやる気持ちや、愛情や、優しさがなければ、心は何も感じないはずです。
悲しい出来事に対して、悲しいと反応するには、「愛と優しさ」がなければ感じないはずなのです。
もう少し話を進めさせていただければ、
何も感じない場合でも、「愛と優しさ」は眠っているだけで、心の中には存在している場合もあります。
辛すぎる、苦しすぎる、悲しすぎる時。
人の心は麻痺してしまうこともあります。
いつの日か、時間が経ってから、ようやく「悲しみ」が出てくる場合もあります。
例えば、大変な災害が起こった時。
私たちは、そのことを悲しみ、苦しみますが、同時に、助けたい、応援したい、という思いをも持つことができます。
どうして、そう思うことができるのでしょう。
過去のそうした出来事が起こった時、辛い話、悲しい話が存在するのはもちろんですが、人の愛と優しさを感じる話も、同じように存在しています。
時には信じられないような、奇跡のような愛と優しさの話もあります。
それは、私たちの心の中に「愛と優しさ」があるとしか、説明できないように私は思うのです。
私たち人間は完璧ではありません。
誰かを恨んだり、許せなかったり、いいことばかりをやり続けることが難しかったり。
それが誰かや何かに危害を加えたりすることになってしまったら、それは許されることではありません。
でも、それとは違う部分も必ず持っている。
人は、自分で思っている以上に、そうした「愛と優しさ」の部分を自覚できていません。
自分のことを、そんなに人は、高く評価できないようなのです。
それどころか、自分は冷たい人間だ、と思っている人がとても多い。
そして、本当の価値よりも、自己評価が低い人の方が、本当に多い。
けれど、
「自分は冷たい」と思っている方が
「自分の本当の優しさ」に気づくことで、自分にも人にも優しくできるようになる。
カウンセリングの中で、そんなケースもたくさん見させていただいてきました。
自分の中に「愛と優しさ」があると感じることが、もっとできたとしたら
私たちは、もっと楽に生きたり、人にもっと優しくできるようになれる。
カウンセリングを通じて、たくさんの方とお話させていただく中で、私は、そう実感しています。
人は、自分に価値がないと感じている時。
誰かに何かをしてあげていいとは思うことができません。
こんなちっぽけな、こんな悪い自分が、誰かの役に立てるとは思いにくいのです。
けれど、自分には優しさがある、と少しでも気がつくことができ
自分には価値があるかもしれない、と思うことができた時。
誰かに何かをしてあげてもいいかもしれない。
そう、ようやく思えることだってあるのです。
痛ましい出来事は、起こっていいはずはありません。
けれど、あえてそこに意味があるとしたら
普段、なかなか気づくことができない「自分の中の、誰かの中の愛と優しさ」
に触れることができる。
そう考えることはできないでしょうか。
そう考えることができた時
私たちは、自分という存在、そして、人という存在を
大切なものだと思えるようになるのだと思います。
そうして、自分に、人に優しくできるようになっていけるのだと思うのです。
(完)