自分の周りにおきている出来事は周りの人や環境しだいであり、自分には変えることができないと思うと苦しくなります。
しかしアカウンタビリティの概念を用いると自分の周りにおきている出来事は自分も何らか一役かんでいるかもしれないと考えることができ、自分の周りに起きる状況を自分の力で変えられる可能性を見つけられます。この考えは希望が持てる考えではないでしょうか。そして建設的な気持ちになれるかと思うのです。
状況を自分の力で変えられるという希望がある考え方
アカウンタビリティの概念の考え方を用いることで、自分を取り巻く状況を変えていきやすいことがあります。
例えば、自分は厄介者で嫌われ者と思っている自己概念を持っているお婆さんがいたとします。
お婆さんは同居をしているお嫁さんに言うんです。
「どうせ厄介者だと思っているんでしょ」と。
「そんなこと思っていませんよ」そういうお嫁さんにたたみかけるように言うんです「いやいや思っているはず、厄介者の年寄りを引き取って迷惑だと心の中で思っているはず」と。
お婆さん自身を厄介者と思っていなくても、その態度をとる行為は厄介ですね。
そんな態度を何回もとり続けられるとお嫁さんも思ってくるんです『ああ、今日も厄介なことがはじまったなぁ・・・』と。
そのうちお嫁さんはその言葉に疲れていき、お嫁さんの顔は厄介者を見るような顔になっていきます。
そしてお婆さんは思うのです『ほーら、やっぱり私は厄介者で嫌われ者なのだ』と。
「どうせ厄介者だと思っているんでしょ」という態度って、とても愛しにくい態度だと思いませんか?
厄介で、嫌いというふうに思いやすい態度ではありますが、決して愛しやすい態度ではありません。
人は自分の持っている自己概念を証明したくなることがあります。
このような自己概念を証明できたとしても『やっぱり私は厄介者で嫌われ者なのだ』と嫌な気持ちになるだけで嬉しいわけではないのですが、不思議と自分の持っている自己概念を証明したくなることがあります。
アカウンタビリティの概念的な視点でこの出来事を捉えると、『やっぱり私は厄介者で嫌われ者なのだ』と感じる出来事は、私の態度がそう感じさせる出来事を引き起こしていたのかもしれないなぁと考えます。
また“自分は厄介者で嫌われ者”という自己概念が、その状況を引き起こしていたのかもしれないと考えていくこともできます。
そして態度を改めてお嫁さんに「私の為を思って○○してくれて、いつもありがとう」と愛しやすい態度でいることを選択することもできます。
また、“自分は厄介者で嫌われ者”という自己概念を手放していこう。
そして、そういうフィルターを通して物事を見るのではなく、お嫁さんが私にしてくれている親切を素直に受け取っていくように心がけていこうと選択することもできるでしょう。
「どうせ厄介者だと思っているんでしょ」よりも、「私の為を思って○○してくれて、いつもありがとう」というような態度にしたほうが、よっぽど愛しやすいと思いませんか?
それに接していて良い気分になれる態度でしょう。
すると、お嫁さんの顔も厄介者を見るような顔ではなく、良い気分の顔でお婆さんを見るようになるかもしれません。
「当たり前のことですよ。他に私にできることがあったら何なりと言ってくださいね」と言いたくなる気分になるかもしれません。
自分の態度を変えることにより、状況を変えられるかもしれないわけです。
自分の周りにおきている出来事は周りの人や環境しだいであり、自分には変えることができないと思うと苦しくなります。
しかし自分の周りにおきている出来事は自分も何らか一役かんでいるかもしれないと考えることで、自分の周りに起きる状況を自分の力(自分の考え方を変える、態度を改めるなど)で変えられる可能性を見つけられると希望が持てるのではないでしょうか。
そして建設的な気持ちになれるかと思うのです。