エゴが愛やつながりから分離をさせようと投げかける作戦に偶像崇拝という罠があります。
偶像崇拝という罠とは、外の何かを崇拝することによって、それが私を幸せにしてくれるという思い込みです。その偶像崇拝の罠を作ってしまう裏には癒されていない傷が隠れているようです。まだ癒されていない心の傷の補償行為ということに気づき手放すことが求められます。
●偶像崇拝という罠
エゴが愛やつながりから分離をさせようと私たちに投げかける作戦の一つに偶像崇拝という罠があります。
偶像崇拝という罠とは、外の何かを崇拝することによって、それが私を幸せにしてくれるという思い込みです。
どうも偶像崇拝という言葉を聞くと原住民が怪しい銅像を拝む映画のワンシーンを私はイメージしてしまいます。
ここでの偶像崇拝の意味は、怪しい銅像の代わりに権力だったり、お金だったり、名声だったり、なにかが自分を幸せにしてくれると思い込み崇拝してしまうようなことをすることです。それがエゴの作戦である偶像崇拝という罠です。
例えば、『お金があれば幸せにになれる』とお金が幸せをもたらせてくれると信じ込み、お金を自分に幸せを与えてくれる物と崇拝するような感じです。
よくよく考えると、それを信じて幸せになれるかというとそうとは限らない要素がたくさんあったり、その理屈にはつじつまがあわなかったりするのですが、それが幸せをもたらしてくれるものと思い込んでしまっているのです。エゴの巧妙さのな罠です。その思い込みには心の傷が隠れているようです。
例えば、『お金があれば幸せにになれる』とお金を幸せをもたらしてくれる神として崇拝していたとします。
人の気持ちよりもお金を稼ぐことを優先したり、お金を稼ぐためなら自分の気持ちを切り捨ててきたりと、強迫観念のようにお金こだわってきました。
お金持ちになり、年収は1億円、外車は3台もっている、都内に一軒家もたてた、別荘も買えるくらいのお金持ちになりました。
お金持ちなりフェラーリに乗って軽井沢の別荘に行くんです。ただし一人で。
軽井沢一のレストランで食事もします。ただし一人で。
友人や、恋人の心は離れ、手に入れた豊かさや、豊かさを使って手にする楽しみを分かち合う人はいない。孤独を感じるんです。
そしてそこで気づくんです、どうもこの偶像崇拝は上手くいかないことを・・・。
豊かさは大切なことですが、お金があれば=幸せにになれるということではないようですね。
このように偶像崇拝の罠は、なにかを崇拝し、それが幸せをもたらしてくれものと傾倒してしまうのです。
しかし、その原因を見ていくと、小さい頃貧しく嫌な思いをした、惨めな思いをした、家族が苦労し笑顔が消えていたなどなど傷ついた経験があり、その癒されていない傷が『お金があれば幸せにになれる』というような偶像崇拝という罠を作っていたりします。
エゴは外の何かを崇拝することによって、それが私を幸せにしてくれるという思い込みをさせます。
自分から愛を与えるなどの内面的なところから幸せを見いだすということではなく、外から何かをもらうことで幸せになると思い込ませるんです。
すると執着をしたり、期待通りのものが手に入らないことで失望するなど傷ついてしまう出来事がおこります。
エゴのいうことはもっともらしく聞こえるのですが長期的には上手くいきません。
心とよく向かい合うと、まだ癒されてない心の傷からくる補償行為なんだと気づくことができます。
エゴの作戦であることに気づき偶像崇拝を手放すと、より楽でより良い人生が手に入ることでしょう。