「ありがとう」は水臭い?~親密な人にほど感謝できない心理~

両親など、親密な関係にある人にほど「ありがとう」を言いにくいと感じるのは、何故でしょう。

恨みがあるわけではないし、本当に感謝しているのに、強い抵抗感が出てくるのは、いったい何がそんなに「イヤ」なのでしょう。「親密感」のルーツがお母さんと赤ちゃんの「言葉にしなくてもわかってもらえる」関係にあることに注目すると、例え「ありがとう」といういい言葉であっても、「言葉」にすることで相手との間に距離ができ、分離感に伴う怖れや寂しさが出てくることがわかります。

「言葉にしなくてもわかってほしい」は「甘え」の一つですが、特に、言葉や行動で甘えられない人ほど、「言葉にしなくてもわかってほしい」という想いが強くなるようです。心理的に自立するためには、意識的に小さな甘えを人(親)に受けとめてもらいつつ、少しずつ水臭くても、小さな「ありがとう」を意識して言うようにするといいでしょう。

◎リクエストを頂きました◎
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私の場合、友達やパートナーなどに、「いつもありがとう。本当に感謝しています」ということは、多少、抵抗(照れ)があっても、カードに書いたりして何とか伝えることができるのですが、両親となると、もう体内の臓器がひっくり返ってしまうのではないか、と思うほど抵抗があるのです。

両親には、本当に感謝しているのです。でも、「生んでくれてありがとう。育ててくれてありがとう。お父さん、お母さん、大好きです」などは、本当に心底難しい。これはどうしてなのでしょうか。
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リクエストをありがとうございました。

親密な関係にある人にほど「ありがとう」「大好きです」を言いにくいと思うことがあります。死ぬほど恥ずかしく感じたり、よくわからないけれどどうにも「イヤ」という気持ちになるのですが、心の中では、相手に深く感謝しているし、恨みつらみがあるわけでもない。なのに、どうしてこんな気持ちになるのでしょう。いったい「何が」そんなに「イヤ」なのでしょうか。ヒントは、親密感のルーツである母子関係にありそうです。

●親密感のルーツは「お母さんと赤ちゃん」

私たちがこれまでで一番「親密感」を感じた記憶をたどると、多くの人にとっては、赤ちゃんの時の、母親か母親に替わる誰かに世話をしてもらった頃になります。泣けばとんできてくれる。お腹がすいたのか、おむつが濡れたのか、暑いのか、寒いのか、痛いのか、不安なのか、説明しなくても、お母さんが察してくれる。身体は離れたけれど心はまだ一つ、という時代の身体の記憶のようなものです。この「察してもらえる」状況は、とても安心感があって、大事にされている気持ちがあるので、この時に感じる「いっしょだ」「ひとつだ」という感覚が、私たちが求める「親密感」のイメージになることが多いです。

●「言葉にしなくてもわかってほしい」は「甘え」

ところが成長するに従い、お母さんが一方的に察してくれる関係は終わります。子供のニーズもだんだんと複雑になり、コミュニケーションの手段として「言葉」を使うようになります。見ようによっては、「お母さんと赤ちゃん」という二人で1セットだった関係が、子供が成長し、自立して、親から離れて、二人の独立した人間として生きる上で必要となるコミュニケーションの道具として、「言葉」があるわけです。

もしも、「親密感」=「察する関係」=「言葉にしなくてもわかる」だとすると、「言葉」にすることで、何だか一番大事なものを失ってしまいそうな怖さや寂しさ、悲しみが出てきそうな感じがしませんか?

赤ちゃんは、お母さんに育ててもらって「ありがとう」とは思いませんし、第一、そのための「言葉」ももっていません。でも、お母さんは、赤ちゃんに愛を感じます。もともと日本人は、「察する関係」「言葉にしなくてもわかる」関係を、とても幸せ感にあふれるものとして、大切にしてきました。だからこそ、「空気を読む」なんて表現もあるのでしょう。私たちには、「言葉にしなくてもわかる」ことを美徳とする文化があるのです。

それをわざわざ「育ててくれて『ありがとう』」と言ってしまったらぶち壊しで、かえって親密な人との間に距離感や分離感を感じそうです。一言で言えば、水臭くてかなわない、ということになります。

「言葉にしなくてもわかってほしい」は誰しもが持っているニーズです。でも、そのルーツを考えてみると、それは赤ちゃんの時の幸せ感が欲しい、という究極の甘えなのかもしれません。

●「甘える」ことは悪いこと?

ここまで読んで、「イヤ」な気持ちになった方も少なくないかもしれません。というのも、親に「ありがとう」と言葉にするのが苦手なのは、むしろ、世間的にはしっかり者と思われている、自立している人に多いのではないかと思うからです。そういう人ほど「甘え」を自分に禁じているのに、「言葉にしなくてもわかってほしい」というのは究極の甘えだ、言われるとのけぞりたくなるのではないでしょうか。

ところが、ここに悲しい物語が隠れていることが多いのです。病気や、家族関係、お金の問題などの外的な理由から、成長の早い段階で、社会的に、金銭的に、あるいは距離的に、親から自立しなければならないと、人は、甘えたい気持ちを封じ込んで頑張ります。でも、せめて心の中では「親密感」を感じていたいと思うのが人情でしょう。「言わなくてもわかっていてくれる」が心の支え、ということもありますよね。

言葉や行動で親に「甘えられる」人にとって、「ありがとう」と感謝を言葉にして「親密感」を損なうと感じることは少ないでしょう。言葉や行動で甘えられないからこそ、「言わなくてもわかる関係」が親密感の砦のようになってしまうのだと思います。親に「ありがとう」と「言葉」にすることで、親との間に生まれるちょっとした距離感が、甘えられない人にとっては「イヤ」でしかたがないのかもしれません。それが唯一の心の「甘え」だとしたら、手放したくないものです。

このような場合、親からの自立は、ほんの少しずつ「水臭さ」を受け容れていくことで実現するのがいいように思います。小さなことで甘えてみる。小さなことで「ありがとう」を言ってみる。小さなことで「ありがとう」と言ってもらう。そんな「小さな」甘え合いと、少しの水臭さを積み上げることで、大きな「ありがとう」を言い合える大人どうしの信頼関係が築けるのではないでしょうか。

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