もう一度「自分」を取り戻したい(3)〜「べき」が「したい」を隠す〜

あなたの小さな「したい」を一つ一つ確認しながら、自分の行動を決めるように意識してみてください。

「怒り」や「悲しみ」、「喜び」という感情は、自分が何を「いい」「いけない」と判断するかによって変わります。「いい子」は、心の奥で、正しくあれば愛されるのと期待して、自然と「すべき」ことのリストが長くなります。皮肉なことに、「すべき」ことを頑張れば頑張るほど、「頑張ったから愛される」のではないかと思い、「できない」ことが不安になります。この「すべき」リストを「したい」リストに変えることが楽に幸せに生きことにつながります。

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お母さんの期待に応えたいばかりに勉強やお稽古ごとを頑張ってきた「いい子」、元「いい子」たちは、

「夏休みの宿題はさっさと片付けるべき」、
「ピアノの練習をすべき」、
「お風呂に入るべき」、
「ごはんはちゃんと残さずに食べるべき」
「お母さんの言いつけはよく聞くべき」、、、

と「べき」ことの長いリストがあります。この中には、自ら「やりたい」と思っていることもあれば、「やりたくない」けれど「やるべき」と思っているものもあります。でも、全部、心の中では「やるべき」扱いになっています。

それは、いつだって自分が「やりたい」か「やりたくない」かよりも、その結果としてお母さんが笑顔になるかどうかの方が大事だったからなのです。

「お母さんの笑顔が見たい」気持ちを最優先するために「やるべき」ことだったのです。

そして、このリストをこなすことに一生懸命になった分だけ、自分が「やりたい」か「やりたくない」かは後回しになります。

この「やるべき」リストの中の、「でも、やりたくない」ことが多くなりすぎると、「やるべき」だからやっているけれど、「やりたかった」のか「やりたくなかった」のかよくわからない、いえ、そもそも「何を」やりたかったのかわからない、ということになってしまうのです。

「優しい」人は、つい無理するので、気づくと頑張りすぎていたりしますね。

「やりたくない」ことはやらなくていいのです。

ただ、この「やりたくない」ことも、もともとは「お母さんの笑顔が見たい」という「やりたい」こととしてやっていたので、「怒り」の感情だけで「もう、やらない!」切り捨てると、今度は罪悪感に苛まれて苦しくなることもあります。

「お母さんの笑顔が見たい」がそもそもの出発点だったことを思い出してみましょう。、そのために今でも出来ることはありますか?どうにもやりたくないこともあるでしょうけれど。できることをしよう、と思ってみてください。もう我慢の限界を通り越して、「顔も見たくない」と思うのなら、「お母さんの幸せを遠くから祈る」でもかまいません。

「やりたくない」気持ちも大事ですが、あなたの、もともとの「やりたい」と思った気持ちも、できるかぎり尊重してあげてくださいね。このあなたの優しさも大切な「あなた」なのです。

「私は、彼にLINEすべきだと思う?」のように、「べき」が口ぐせになっているとしたら、きっと「やりたい」ことですら「やるべき」と言ってしまうほど、他人の気持ちや社会的な「正しさ」を自分の気持ち以上に優先する傾向があるのかもしれません。

自分が口にする「べき」に気づけたら、一呼吸して、「私は、彼にメールしたいけれど、いいのかしら?」と、「べき」を「したい」に言い換えてみてください。その言葉に違和感がなければ、それは、あなたが「やりたい」と思っていることなので、そのまま突き進んでOK。

でも、もし、少しでも違和感があるようなら、ちょっと時間をおいてみてください。他人の目よりも大切にしたい自分の気持ちがあるのかもしれません。落ち着いて、「自分の気持ちを大切にしたい」と言いながら、もう一度、「私は彼にメールをしたい」と言い直してみてください。

あなたの小さな「したい」を一つ一つ確認しながら、自分の行動を決めるように意識してみてください。少しずつ、自分の行動に責任をもてるようになり、自信がついてきます。

そして、不思議なもので、あなたが自分の言うこと、やることに、「ま、いいか。私がそうしたいんだもん」と言えることが増えるつれて、「そんな私も愛されている」と気づける、小さくても幸せな出来事が続いたりします。

「そんな私も愛されている」が「どんな私も愛される」になる日が早く訪れますように。

>>>『もう一度「自分」を取り戻したい(4)~自由は「愛」の中にある~』へ続く

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