犠牲をやめて幸せになる(1)~我慢や無理は犠牲の元~

誰かとの関係が苦しくなった時、もしかしたら犠牲しているのかもしれません。

犠牲は頑張っても頑張っても報われないものです。嫌だけど何かをしてしまう時、犠牲しているのかもしれません。相手の為を思って何かをしているのに、報われない感じがしてしまう時、犠牲しているのかもしれません。犠牲していると、とても苦しくなります。

それでも犠牲してしまうのを、やめられない事があります。犠牲を続けていると、誰かとの関係性に疲れてしまいます。犠牲を続けていると生きる事にすら疲れてしまいます。そんな犠牲について考えてみましょう。犠牲とは、そもそもどういう状態なのか?いったいどうして犠牲してしまうのか?どうやれば犠牲をやめることができるのか?犠牲をやめると何が手に入るのか?を、4回シリーズでお届けします。

● 我慢や無理は犠牲の元

誰かの為に何かをしてあげると言うのは、行動としては素晴らしい事です。やってもらった人も嬉しいですし、助かります。
そこには、何かをしてあげる(与える)・何かをしてもらう(受け取る)という流れが出来ていますから、関係性がとても充実していてお互いが、幸せなのです。

自分の事はさておき、人の事を優先させている人や、自分の気持ちを我慢して、誰かの為に何かをしてあげている人っていますよね。
そういう人を見た時に、「犠牲的だな~」などと言ったりします。
また、自分自身も何かしら自分を置き去りにして、誰かの為に何かをしている事ってあるのではないでしょうか。

でも、犠牲的な人を見たとき、または、自分が犠牲的であった場合は、「幸せそう」「幸せ」とは、感じられません。
何故なんでしょう?

私達が、「私は犠牲的だ」「あの人は、犠牲的だ」と感じるとき、まずそこには、我慢や無理があります。
「本当は嫌なんだけど・・・」「本当はやりたくないけど、無理をして・・・」
我慢や無理をしている人を見ると、「苦しそう」「辛そう」に見えます。ですから、「幸せそう」には、見えないのです。

我慢や無理をしている本人も、自分の気持ちをさておき、誰かに何かをしてあげているわけですから、苦しいし、辛いのです。ですから「幸せだ!」とは、感じられません。
私達人間は、我慢や無理をする時に、自分の気持ちを押し込めます。押し込められた気持ちは、無くなるわけではありませんから、ずっと心の中にあるのです。

そんな自分の本当の気持ちを、押さえ込んだまま、誰かに何かをしてあげると、本当は相手の事を想って何かをしてあげたかったのに、「私は我慢しているのよ!」「無理にやってあげているのに!」と言う気持ちに変化してしまうのです。

我慢して何かをしてあげる、無理をして何かをしてあげると、「与える」と言う事が、「与えてあげている」に変化してしまうのです。
そうすると、何かをしてもらった側は、「与えてあげているのよ!」と言うエネルギーを感じますから、「頼んでないよ」「やってくれと言ってない」となって、受け取ってくれません。「与えてあげている」でも「受け取らない」となって、流れがなくなってしまうのです。

わかりやすいお話しで例えると、お母さんが、子供の為にお弁当を作ったとしましょう。
「子供においしいお弁当を作ってあげたい」と言う気持ちには、我慢も無理もありません。ですから、お母さんがお弁当を作ってあげる(与える)と、子供はおいしくお弁当を食べることが出来ます。(受け取る)
でもお母さんが、自分の事はさておき、やりたい事も何もせず、我慢していたとしたら・・・

「私は、いっぱい我慢しているのよ!でもお弁当を作ってあげているのよ!」となります。そうすると、子供は「そんなにしんどいなら、作ってくれなくてもいいよ!」と言う気持ちになります。皆さんもそんな覚えはありませんか?

犠牲は、犠牲をしている人もしんどいですが、犠牲をして与えてもらった側もしんどいのです。
我慢や無理をして、何かをしてあげているのだとしたら、ご自分の気持ちを大切にしてもいいかもしれませんね。その方が自然な流れが出来ます。

>>>『犠牲をやめて幸せになる(2)~行動の動機をみてみよう~ 』に続く

この記事を書いたカウンセラー

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恋愛や結婚、浮気や離婚など男女関係、対人関係やビジネス関係、家族関係や子育て、子供の反抗期、子離れ、親離れ問題など幅広いジャンルを得意とし、お客様からの支持が厚い。 女性ならではの視点と優しさ、母としての厳しさと懐の深さのあるカウンセリングが好評である。PHP研究所より3冊出版。