無理や我慢があると犠牲的になって、しんどい思いをします。
でも、犠牲とはそれだけではありません。何か行動をする時の動機に怖れがあると、犠牲的になってしまうのです。今回は、愛からの行動と、犠牲的な行動の動機の違いについてご説明いたします。同じ事をしていても、愛と犠牲では、実は大違いなのです。
● 行動の動機をみてみよう
犠牲は、我慢や無理があると言うお話しをしましたが、実はそれだけではありません。
大好きな人がいると、その人の為に何かを与えてあげたくなります。愛情や優しさ、安らぎや安心感、お金やSEX、時間。与えてあげたいものは、様々ですが、与えてあげたい動機が「相手を喜ばせてあげたい」と言う理由です。
ところが、犠牲になると与える物は同じなのですが、「嫌われるのが怖いから」「怒られるから」など、動機が違ってきます。
「相手を喜ばせてあげたい」と言う動機で、行動している時は、自分も相手の喜ぶ顔を見て嬉しいですし、たとえ相手が喜んでくれなかったとしても、自分がやりたい事をやっているので、自分は傷付きません。
愛情や優しさ、安らぎや安心感、お金やSEX、時間など、同じものを与えているのに、嬉しさや楽しさが無かったり、傷付いてしまうのなら、動機が間違っているのかもしれませんね。
「嫌われるのが怖いから」「怒られるから」などが動機になっていると、何だか自分が相手に負けている感じがするのですが、実は犠牲は、相手に負けているのではなく、自分から負けてあげているのです。
「相手を喜ばせてあげたい」と言う気持ちは、「喜びを、与えてあげたい」と言う事でもあり、自分自身が、「与えてあげたい」と思っています。犠牲的になっていると「嫌われたくないから、喜ばせてあげている」「怒られるのが嫌だから、与えてあげている」になってしまうのです。
お付き合いしている二人や、結婚している夫婦、親子など大切な人との関係は、本来対等であるはずです。どちらが優れているとか、負けているとかはありません。
でも、犠牲が二人の間に入り込むと、犠牲している側が、わざと負けてあげて、相手を勝たせてあげる関係になってしまうのです。これでは、二人の関係性は、対等でなくなります。
ですから、犠牲的になっているといつも「苦しさ」「悔しさ」「報われない気持ち」を、感じるのです。わざと勝たせてもらっている側も、「申し訳なさ」「惨めさ」を感じます。
ちょっと厳しい言い方をすると、犠牲は愛ではないと言う表現があります。
与えてあげるものは同じで、一見すると愛と区別が付かないのですが、犠牲と愛では動機が違うのです。
誰かの為を思って、何かをしているのに、何だか苦しい、悔しい、報われない気持ちがあるという場合、一度行動の動機を見直してみるといいかもしれませんね。
とは言っても、犠牲しているから相手への愛情がないと言うわけではありません。愛はあるのですが、動機に怖れがあるのです。
ほんの少しの違いなのですが、愛と犠牲では、実は大違いなのです。