もう一度「自分」を取り戻したい(4)~自由は「愛」の中にある~

「自分」も、あなたが大切に思う人たちも、「みんな」を笑顔にできる「愛し方」を探しませんか?

「いい子」がNOが言えなかったり、補償行為で自分の不安感や怖れを隠したくなるのも、もともとは子供の頃に自分のまわりにいた家族、特にお母さんの笑顔が見たかったからです。なので、ただ我を通すだけでは自分に満足できないこともあります。そんなときは、「みんなの笑顔が見たい」という自分の大きな願いを思い出して、「違い」を受け入れられるくらい「愛したい」と思ってみましょう。自分が大切に思う人と違っても愛される、と思えると心の枷から自由になります。

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「いい子」、元「いい子」にとっては、他人の目、価値観、期待に応えることは、生きていく上での安全弁になっているので、それができないと感じると、社会からはじき出されるような怖さを感じます。

「人の意見や価値観に縛られて自分がない」と感じていますが、そのココロの奥には、「人の笑顔が見たい」という「優しい」気持ちがあります。「みんなで仲良く生きたい」と思っているのです。

その「みんな」の中に、「自分」を数に入れるのを遠慮しているうちに、「自分」が何をしたいのか、何を求めているのかがわからなくなり、もともとの「みんなの笑顔が見たい」という願いも見えなくなり、悶々とした生きづらさを感じるようになります。

置き去りにしてきた自分の小さなNOや、「すべき」の山(心理学では補償行為と言います)に埋もれた「欲しい」「やりたい」(ニーズ)を掘り起こすことで、見えなくなっていた「自分」が少しずつ姿を現します。自分の小さなNOや「欲しい」「やりたい」にOKを出すことは、自分に「ありのままでOK」と言うこと、です。私は私でいい。私は私のままで、自分を愛し、尊重する、と思えるといいですね。

それでも、もともとが「みんなの笑顔が見たい」人ですから、その大きな願いを生きられないと、自分が生まれてきた意味が感じられないというところがあります。

NOが言えなかったり、「すべき」でがんじがらめになってしまうのは、それしか「愛し方」を見つけられなかったからです。私たちは、子供時代に親を喜ばせたいと思うとき、「親の言うことをきく」、「親の願いを叶える」しか選択肢がないように思います。つい、同じように「愛する」ならば、「相手のいうことをそのまま受け入れて言うことをきく」、「相手の願いを叶えるためにはやりたくないこともする」必要があるように感じるのです。その「愛し方」で頑張りすぎると、「自分」が見えなくなってしまうんですね。

もともと「みんなの笑顔が見たい」のであれば、「自分」も、あなたが大切に思う人たちも、「みんな」を笑顔にできる「愛し方」を探しませんか?

実際、「考え」が違っても、「やりたいこと」が違っても、相手のことが「大好き」ならば、「違い」を尊重できる、という経験もあるのではないでしょうか。

相手と「同じ」だと、確かに、愛しやすいです。でも、まったく「同じ」人はいませんから、必ずどこかで「違い」が出てきます。

パートナーシップも、「彼と趣味が一緒で、いくら話しても飽きないの!」という「大好きなものが一緒」というところから始まることが多いです。

でも、つきあいが長くなり、お互いをよく知るにつれ、「違う」ところが「問題」になります。「音楽の趣味は一緒なんだけれど、彼のいびきが気になってしまう」のです。それでも、この彼が大好きで大好きでしかたがなくなると、「彼のいびき?確かに大きいわね。あぁ、横にいてくれてるんだな、と思うと安心するわ」になったりします。

よく「目の中に入れても痛くない」という表現を使いますが、「大好き」ならば何をされても許しやすいものです。

あなたが「自由」になりたかったら、愛されるために「相手の言うことを聞く」「相手の願いを叶えるためにやりたくないこともする」のではなくて、自分が「相手のことが好きだった」ということを思い出して、あなたに期待してしまう相手を許してみましょう。相手もあなたのことが好きだから、つい甘えたくなるのです。「大好き」だから仕方がない、と見てみましょう。

相手があならに甘えてもOKならば、あなただって「NOを言っても」(自分の気持ちを通しても)OKです。相手のことが大好きで、相手の願いを叶えたいあなたの気持ちがあればこそ、できることは心からやるのですから、やりたくないことは「やりたくない」でいいのです。逆に、あなたの方が「お願い」したっていいのです。

多くの、親や他人の期待に応えることに汲々として「自分がわからない」というご相談の解決の道は、「自分が本当はみんなを大好きだったことを思い出す」ことから始まりました。心に秘めた激しい葛藤も、「大好きだった」けれど、もうこの愛し方では愛せない、というところにあることに気づけると、違う愛し方をさがす、という選択肢が見えてきます。

心の自由は、「同じ」だから「愛しやすい」から、「愛している」から「違っていても大丈夫」になることで手に入ります。

本当は、それくらい人を好きになりたい、ということなんですよね。

(完)

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