家のすぐそばで、大きな虹の橋が架かっているのを見つけました♪
虹を見たときに感じるワクワク感は、子供の頃よりも、大人になった今の方が、俄然、大きい気がします。
たぶんそれには、わたしなりのセオリーが確立しつつあるからなのかもしれないけど。
今まで必死にもがいていた世界から、次の異なるステージへと、進むことを許されたOKサインのように思えるからなのかもしれません。
「こっちに渡って来てもいいよ♪」
そろそろ、新しい世界を旅してみたい。
そんなわたしの望みを知っているなにかが呼んでくれている!という気がしてしまうのは、わたしだけではないかもしれませんね。
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この数年くらいでしょうか?
わたしは心の奥底で、「なにかが違う」と思いながら、必死にその何かを確かめたくてもがいていたような気がします。
その「なにか」は、顕在意識と潜在意識との狭間で、現れては消え、現れては消え・・・としながらも自分では「これ!」といったものがなかなか捕まえられず(笑)
今と過去を行ったり来たりしながら、体験を振り返る時間を越えた冒険のようでもありました。
手掛かりは、「わたしのニーズが満たされなかった場所」
今、振り返って分かるのは、失われた宝を取り戻す旅だったように思います。
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この世でのわたしたちの心には、純粋な想いと自我の想いが混在しています。
ふたつは見分けがつきにくいし、見分けられたとしても、そのふたつの想いが混在していることを自我はいつものように厳しく裁いてしまいます。
「自分は矛盾している」と。
否定と肯定は、いずれも不安や怖れから生まれた同じ態度。
完全な愛は、否定も肯定もせず、ただあなたの本当の姿だけを見て幸せでいる。
価値あるものが自分の内側にあることが、少しずつわかってくるにつれて、自分の外側に必要なものは少なくなっていきました。
そして、自分にとっての真実を思い出してくると、誰もが同じ一つのことを伝えようとしていることがわかってきます。かつて、お互いに矛盾して相容れないと思っていた概念が、その土台においてはひとつなのだと。
怖い夢、哀しい夢から目覚めたとき、わたしの中の目的意識が、一度死んで再生したのが分かりました。
それは、自立という、一度わたし自身が確立した自我の死でもありました。
何かを成し遂げなければ、誰かを助けなければ、という夢から覚めると、夢ではないものが見え始めます。
それでも真実のわたしは死なないし、何も失っていないのです。
とても不思議な感覚でした。
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愛で生きるか、怖れで生きるか。
サービスで生きるか、サバイバルで生きるか。
わたしたちは、それらを見極めながら、自分が生きたい世界を望むようにデザインすることができるようです。
今年はわたしも、ようやく心置きなく重い荷物だけを置いて目の前に掛かった光の橋を辿って行けそうです。
まだ見たことも味わったこともないその世界で、先に渡った仲間と再び合流できることを信じて、新たな地平線を踏みしめながら進んで行きたいと思います。