明けましておめでとうございます。
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2018年は、あなたにとってどんな年でしたか?
年末年始には、帰省したり、帰ってきた家族親族を迎えたり、いつも一緒に住んでいる家族でも、長い時間一緒に過ごしたりと、人とのつながりを色濃く感じる時期ではないでしょうか。
元日から、また新しい1年が始まりました。
昨日の続きの今日のはずですが、「おめでとうございます」とあいさつを交わしたり、神社に参拝に行ったりすると、何とはなしに新しい気持ちになります。
【もしも24時間後に…】
心理の本などで
「24時間後に自分が死ぬ(あるいは、世界が滅びる)としたら、残りの時間をどう使いますか?」
といったようなエクササイズを見たことがありませんか?
私は何度かこの手のエクササイズをやったことがあります。
思いついたのは、恩人や気にかけていた人たちに会いに行ったり、一度行ってみたかった場所で時間内に行けそうなところに行く、ということぐらいでした。
恩人に会うのは確かに大事なことですけど「絶対!会いたい!」と心が動くわけでなくて、他にしたいこともないし、という消去法的な答えだったんです。
その頃は家族との関係はあまりよくなく、パートナーがいるわけでもなく、もうすぐ死ぬと考えてみても「何か失うわけでもないしなぁ」とピンときませんでした。
【24時間後ではなく、今、死んだ気になってみた】
1カ月ちょっと前に「入棺体験」というイベントに参加する機会がありました。
実は私は、親族の葬儀に2回しか出た事がありません。(私は50代ですから2回はかなり少ないかなと思います)
1度目は母方の祖父が亡くなったときで、私は小学校に上がる前でした。
2度目は20年ほど前に父が亡くなったときですが、自殺だったため遠方にわずかにいる親族には連絡せず、広い葬儀場に家族4人だけの葬儀をして、誰も泣きませんでした。
このとき父は問題の中心人物だったために、悲しさとか喪失感、十分に愛さなかった後悔(ほんとうは誤解なのだけれども)といった、普通肉親を亡くした時に感じるような感情を、私は全く感じることができなかったのです。
問題は終わって家族には一応の平和が訪れ、父の死は「なかったこと」のように誰も話しませんでした。
私は、「死」をちゃんと正面に見た事がなかったので、見てみなくてはいけないという気持ちがずっとあったようです。
「死」を知らなくてはいけないと思って「入棺体験」のイベントに申し込みました。
本物の棺桶に入って蓋を閉めてもらって、本物のお坊さんがお経を読んでくれるという体験です。
たかが棺桶に入ってみるぐらいで、死んだ人の気持ちになんて、なってみられるものだろうか?と半信半疑のまま私の番になりました。
ところがまるで予想していなかったのですが、棺に入って感じたことは、生きている世界がいかに彩りに溢れた世界かということだったのです。
喜びや幸せはもちろん、悲しみや寂しさ、腹を立てたり裏切られたり、重圧に絶望しそうになったり、といった「好ましくない出来事・感情」までも、私が体験として身を置いてみた「死」の側には、なにもない。
悲しみや辛さですら「生きている」という起伏の一部にすぎず、起伏がなくなるときは命がなくなるとき。
苦しい気持ちまでもが愛おしく思えそうなほど、「死」の世界には何もないと感じられました。
そして、体験だから3分経てば蓋が開くけれども、本当にあちら側に行くときには
「どんなに帰りたくても帰れないのだ。
一緒にいたい人がいても、自分から立ち去らなくてはならないのだ」
そう感じて、涙が出ていました。
必ずその時は来るけれども、どれだけ時間があるのかはわからないのです。
【ちゃんと命を使えているだろうか?】
「一度きりの人生」「限りある命」とはよく言われるけれども、それをいかにちゃんとわかっていないかを突きつけられました。
「死」を知ろうとして棺桶に入って、「生」を突きつけられました。
私はちっとも、生きていない。
日々の生活の中では、決められた時間までに約束を守ることを気にしてばかりですが、命の本質のことは、いつも、何でも、後回しにして、時間がいつまでもありはしないということも「あぁ、わかってるわかってる」とつい耳をふさいでしまいます。
いま、この世界にこの体で生きていることのありがたさ。
時間と共に忘れて行かないように、しっかり刻んでおかなくては。
大切な人を、ちゃんと大切にできるように、伝えるべきことをちゃんと伝えられるようにしなくては、という思いをかみしめた体験でした。
あなたにとってこの一年が、自分の命とつながって生きる時間となりますように。
大切な人と心をつなぐことができる時間となりますように。