ハードワークは補償行為の代表格。燃え尽きてしまうまえに休むことが大切。
お仕事だけに限らず、家事や趣味、友人との行事ごとなど、様々なことに対して、一生懸命取り組むことが悪いわけではありません。
ですが、疲れていても、極端な場合は、病気やケガをしても休めないという状況になっているのであれば、それは罪悪感の補償行為なのかもしれません。
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誰かに対して申し訳ないことをしたというわかりやすい罪悪感だけでなく、私たちは潜在的に多くの罪悪感を抱えているものです。
そんな罪悪感を、補償するために、ハードワークして「良い人」「役に立つ人」「できる人」になっていることって、少なくありません。
補償行為というのは、やっていることは良いことなのですが、やってもやっても本人が報われることがない行為であり、その行為をやめてしまうと、隠そうとしていた「悪い私」「役立たずの私」「ダメな私」がバレてしまうと感じるので、やり続けるしか選択肢がなくなってしまうのです。
ところがやってもやっても、それは罪悪感をカモフラージュする行為ですから、達成感や充実感などを得ることができず、疲れ果ててしまうことになります。
そんな補償行為の代表格が、ハードワークと言われるものです。
ハードワークの特徴は、何と言っても休むことができないということです。
体調が悪くても、ケガをしたとしても、仕事を休むことができない。
周りから、「休んでいいよ」「休んだ方がいいよ」と言われたとしても、休めないのです。
あまりに仕事ばかりになるので、家族のことをほったらかしにしてしまって、家庭に問題が出てくることもあります。
実際にケガや病気になって、入院するようなことになっても、病室にパソコンを持ち込んで仕事をしているなんてこともありますし、旅行に出かけたとしても、仕事のことが気になって、旅行を切り上げて帰ってしまうなんて人もいたりします。
家事のハードワークだとしたら、やはり家事を休むことができない。
どんなに疲れていても、どんな状況であっても、掃除や洗濯、食事の準備などを休んだり、誰かにお願いしたりなんてことができません。
ハードワークの特徴は他にもあって、ハードワークをしている人の周りにいる人たちに、無価値観を感じさせてしまうことです。
もちろん悪気は全くないのですが、休みもなく働き続けていることで、特に家族などは「私たちはあの人にとって、必要ないのだ」と無価値観を感じてしまうことが多いですし、同僚などは「あの人のように自分は働けない」と、無価値観を感じることが多いのです。
家事のハードワークの場合も同じです。
ハードワークをやめることができないでいると、いつか限界がやってきます。
それは体力的にもそうですし、精神的にもです。
休めないわけですから、体力的に限界がやってくるのは、理解しやすいかもしれませんね。
精神的にどうして限界がやってくるのかというと、やってもやっても満たされることがないからです。
いくら仕事で成功したとしても、得られるのは「悪い私がバレなかった」「役立たずであることがバレなかった」「ダメな人間であることがバレなかった」という気持ちだけなのです。
「うれしい」「よかった」「楽しい」などの気持ちがまったく得られないので、だんだんと「やっても意味がないのではないか?」と感じるようになります。
ですが、休んでしまうと罪悪感が顔を出すので、休めない。
休めないで、やり続けるけれど、満たされない。
これの繰り返しになって、精神的に参ってしまうのです。
一生懸命に働くこと、休みを惜しんで働くこと全てに問題があるわけではないのですが、周りにいる人が無価値観を感じたり、休めないという状況になっているのであれば、補償行為としてのハードワークになっているかもしれません。
燃え尽きてしまう前に、自分の罪悪感と向き合い、癒していく必要があるのかもしれませんね。
>>>『2.罪悪感による補償行為の色々(2)~良い人という補償行為~』へ続く