良い人をやりすぎると、喜怒哀楽がなくなってしまう。
いつもニコニコ笑顔で、声を荒げて怒るようなこともなく、お願いすれば快く引き受けてくれる人って、良い人ですよね。
良い人の全てが、罪悪感からの補償行為だというわけではないのですが、罪悪感をカモフラージュするために、良い人になりすぎていることがあります。
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誰かに対して申し訳ないことをしたというわかりやすい罪悪感だけでなく、私たちは潜在的に多くの罪悪感を抱えているものです。
そんな罪悪感を、補償するために、過度に良い人になり、頼まれごとは断れないとか、理不尽な扱いを受けても怒れないとか、良い人でい続けなくてはいけなくなってしまっていることって多いのかもしれません。
補償行為というのは、やっていることは良いことなのですが、やってもやっても本人が報われることがない行為であり、その行為をやめてしまうと、隠そうとしていた「悪い私」「役立たずの私」「ダメな私」がバレてしまうと感じるので、やり続けるしか選択肢がなくなってしまうことですから、やはり良い人をやめることができないのです。
良い人をやめるというのも、変な言い方ですが、頼まれごとをされたときに、自分にも用事があって、それを引き受けるのが難しい場合であっても、自分の用事を犠牲にして引き受けてしまう。
理不尽な扱いをうけて腹が立っていたとしても、怒る人は良い人ではないと感じるので、怒れない。
中には、良い人という補償行為を長年やってきた結果、理不尽な扱いをされてもすぐには腹が立たず、しばらく時間が経過してから腹が立ってくるが、やはり怒れないという人もいます。
良い人であることは、素晴らしいことですし、良い行いの全てが罪悪感の補償行為というわけではありません。
ですが、「その行為をやめられない」ということと、「やってもやっても満たされない」ということがあるのであれば、それは補償行為の特徴ですから、やがて疲れ果ててしまうことになってしまいます。
笑顔のステキな優しい良い人であってはいけないということではありません。
無理をしていないのか?
悲しいとき、つらいとき、腹が立つとき、大変なとき、そんなときでも無理をして良い人をやってしまっているのであれば、それは罪悪感からの補償行為なのかもしれません。
補償行為として、過度に良い人をしているのだとしたら、それは、自分のことをとても悪い人だと思ってしまっているからかもしれません。
私たち人間は、何かを隠すときに、真逆の行為をすることで、隠そうとすることが多いものです。
色が白いことがコンプレックスだと言う人は、小麦色の肌になることで、そのコンプレックスを隠そうとします。
それと同じで、過度に良い人として振舞う補償行為をしているのだとしたら、自分のことをとても悪い人だと思ってしまっている可能性があるのです。
人間ですから、喜怒哀楽があって当たり前ですし、いつも完璧に良い人でいられるものでもないのですが、補償行為で良い人になっている場合は、ある意味、喜怒哀楽がない状態になってしまっているんですよね。
そして、補償行為ですから、いくら「〇〇さんは、良い人だ」と周りからほめられても、「○○さんは、やさしい」と言われても、ちっとも嬉しくないですし、心が満たされることがないのです。
補償行為というのは、やっていることは良いことだけれど、その動機が罪悪感を補償するためということなので、やめられない。
だから、喜怒哀楽を殺して、いつもニコニコ笑顔の良い人になってしまうんですよね。
やっていることは、良いことなのですから、罪悪感を補償するためではなく、動機を変えていくことができればいいんですけどね。
>>>『罪悪感による補償行為の色々(3)~正しさにこだわるという補償行為~』へ続く