私達の自信はどのようにして醸成されるのでしょうか。
生まれたたての人間の赤ん坊は歩くことができません。
しかし、個人差はあるものの、平均すると1歳ぐらいから歩けるようになります。
伝い歩き、独り立ちなどのプロセスの中で平衡感覚や歩き方を失敗しながらも学び、ようやく歩けるようになっていくのですね。
失敗して転んでも立ち上がる、諦めないことが“歩く”という目標を達成できる唯一の方法なのでしょう。
そういった意味では、病気や障がいをお持ちの方は別として、歩けるようになった私たちは、失敗しながら、成功するためのプロセスを歩んできた実績を持っているのですね。
もし転んでそこで歩むことを諦めてしまっていたとしたら、私たちは歩行することができなかったのではないでしょうか。
大人になると、様々な経験や知識が身について、失敗することに対する怖れを強く感じるようになります。
何かをやろうとしたときには、失敗する不安が頭をよぎったり、失敗したことに対してひどく自分を責めてしまい嫌な気分になることを怖れたり、あるいは困窮したり生命の危機さえ感じてしまうこともあるでしょう。
しかし、何事においても、最初からうまくいくことは、ほぼありません。
先にお話した赤ちゃんの歩行の例のように、何度かの失敗を積み重ねてそこから学び、体得し、成功へ一歩ずつ近づいていくのです。
そのような考え方をすると、“失敗は成功の素”であり、必要なプロセスなのです。
その失敗にくじけ、自分で諦めてしまった時が実は失敗が確定する時なのではないか、と私は思います。
その意味では、失敗かどうかは自分で決めていることになります。
一方、“勇気ある撤退”という言葉があります。
一度始めたことは勇気を持たないとなかなか止められないので、止めるには勇気が必要という意味です。
これも私はまた真実だと思います。
諦めないことと、勇気ある撤退は一見矛盾する様に捉えられるかもしれませんが、そうではありません。
諦めないことと、勇気ある撤退は心の内面を眺めたときに、矛盾してはいないのです。
諦めないことは、決して防衛的ではなく、前向きに気持ちが保たれている時に取るべき行動です。
一方、勇気ある撤退は、防衛的で、後ろ向きな気持ちになってしまった時に取るべき行動です。
抽象論だと少し難しいかもしれませんので、具体的な例を用いて考えてみましょう。
ある商品Xを開発する場面を想定します。
商品Xはマーケティングの側面から「そのような製品ができれば、ヒットする」と見込まれている商品ですが、技術的なハードルが高い製品でもあります。
技術者たちは、その技術課題を乗り越えようとブレイクスルーを探ります。
その開発過程で様々な失敗を繰り返していますが、技術者の気持ちの中には自分を責める気持ちは無く、失敗から学べる現象を解析し、改善することに注力しています。
そして、いつか製品を作り上げるという意欲に満ちている状態です。
このような状態は“諦めない”で進むべき状態です。
しかし、その状況が延々と続き、「ブレイクスルーを見つけられないのは自分の能力が低いせいだ」などと自分を責めるようになり、しかし一方で「これを成功させなければ自分がどんな目に遭うかわからない」と思い始めたとします。
これが“執着”と呼ばれる状態です。
この状態は、“勇気ある撤退”を考えるべき状態です。
前者は、自分の気持ちのエネルギーが自分の外側に向かっている状態であるのに対して、後者は、自分の気持ちのエネルギーが自分の内側に向かっている状態です。
もっとも、“勇気ある撤退”は、一度手放してみて体制を立て直す(心を立て直す)という意味もあり得ます。
一度手を引いて、冷静に判断して、それでも気持ちのエネルギーが外に向けられるようであれば諦めずに再度チャレンジしてもいいかもしれません。