正しさというルールに縛られてしまう補償行為
正しいことをすることは、素晴らしいことです。ですが、日常にあふれている正しさというのは、実はとても微妙なもので、人によって正しさの基準が違っているのです。
ですから、ある人にとっては正しいことであっても、別の人にとっては、正しいことではないということが、たくさん存在するのです。
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誰かに対して申し訳ないことをしたというわかりやすい罪悪感だけでなく、私たちは潜在的に多くの罪悪感を抱えているものです。
そんな罪悪感を、補償するために、正しさにこだわるという補償行為があります。
きちんと社会のルールを守るというだけでなく、社会生活において、常に自分は正しくあろうと強くこだわるのです。
ハードワークするや、良い人になるという補償行為がそうであったように、正しさにこだわることもまた、やっていることは良いことです。
社会のルールをきちんと守り、常に正しくあろうとすることは、良いことですからね。
ただ、補償行為ですから、やめられないわけですね。
つまり、どんな時でも判断基準が、正しいか間違っているのかという二者選択になるので、あいまいさや、自分が持っている正しさの基準以外を許せなくなってしまったりして、だんだんと苦しくなってきます。
また、ルール違反する人に対して、どうしようもなく腹が立ってきてしまったり、正そうとしてしまいますので、衝突が起こることも少なくありません。
もちろん、社会のルールを守ることは大切です。
ですが、厳しすぎるルールによって、どんどん自分や周りの人たちを追い込んでしまうことになるのです。
問題になってくるのは、自分にとっての正しさなのかもしれません。
例えば、「必ず朝食をとる」というルールがあるとしましょう。
一般的に正しいことかもしれませんし、健康面からも良いことかもしれません。
そんな正しさのルールを持っている人が、ついうっかり寝坊してしまって朝食をとる時間がなかったとします。
あわてて身支度を整えて、部屋を飛び出して仕事へ向かう。
途中のコンビニでパンでも買って食べてもいいのですが、正しさにこだわり過ぎていると、それも正しくない行動ということになってしまいます。
結果、空腹のまま、正しいことができなかった自分を責めながら、会社に到着するということになります。
そんな時に、「すみません!寝坊してしまいました!」と言って、遅刻してくる同僚がいたとしたら、腹が立ちますよね。
「自分は正しくないことをしてしまったから、こんなに自分のことを責めているのに、なんだよその態度は!」ということになります。
自分の正しさを、万が一自分が守れなかったときに、とてもひどく自分や周りを責めてしまうのです。
もちろん補償行為ですから、「〇〇さんは、いつもきちんとしておられますね」とほめられたとしても、ちっとも嬉しくないです。
他の補償行為がそうであるように、正しさにこだわるという補償行為も、やってもやっても報われることはなく、その動機は罪悪感を補償するためです。
ですから、やりがいや、達成感、充実感、喜び、楽しさなどを感じることができないのです。
ちなみに、正しさにこだわるという補償行為をしているから、「自分は間違っている」という罪悪感を持っているというとは限りません。
暴れん坊で社会のルールに反するようなことばかりしていた父親のことを、批判していた罪悪感の補償行為として、正しさにこだわるなんてこともありますし、理由はなんであれ、その陰には罪悪感があるということなのです。
正しさにこだわることも間違っているわけではないですし、社会のルールを守るということは、良いことですが、やはり補償行為であれば、やめることができずにきびしくなりすぎてしまいますし、疲れ果ててしまいますから、補償行為の動機となっている罪悪感と向き合っていく必要がありますよね。
>>>『罪悪感による補償行為の色々(4)~補償行為を減らしていくために~』へ続く