「正しさ」の罠にハマらないために
寄り添い、助けたいと思うのに、「ああでもない」「こうでもない」とへ理屈をこねられると、「正しさ」で論破するか、役に立てずにイライラして相手と距離を取りたくなりますが、そんな自分の感情に気づけた時こそ、相手を本当に理解できます。心に橋をかけるコミュニケーションのコツをつかんでくださいね。
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こんにちは。みずがきです。
ミルクボーイの「オカンが〇〇を忘れてもうた」ネタには、あまり「お笑い」をフォローしていない私も、大笑いし、しばらくスーパーでコーンフレークを見るたびに、「ククク」となっていました。
このような「ああでもない」「こうでもない」会話ってよくありますね。
「好きな朝ごはんの名前を忘れちゃったらしい」。
「じゃあ、一緒に考えてあげるよ」、と親切心で受けると、
「甘くて、カリカリしていて、牛乳とか、かける」、「ならば、コーンフレークだろう」となるのですが、「そうじゃない、って言うんだ」とチャチャが入ります。
「じゃあ、違うんだね」と言えば、「でもわからない」と話を戻して、「栄養バランスが大きな五角形でついている」、「ならばやっぱりコーンフレークじゃないか」となりますが、そう言えば「そうじゃない、って言うんだ」とまた混ぜ返します。
「オカン」に限らず、この「ああでもない」「こうでもない」終わらない話につきあって、くたびれた経験は、誰しもあるのではないでしょうか。
「理屈」はこねることに意味がある
「どうしたらいいのか教えて欲しいのだけれど、、、」と切り出されると、「それならば、こうしたら?」とアドバイスしたくなりますが、すると必ず、「でも」と、受け入れられない理由を言われます。
相手の助けになりたいと親身になって聞き、助言をすると否定されることが続くと、イライラしますね。自分の助言は、意味がないのだと感じます。実際、その通りなのです。では、「ああでもない」「こうでもない」と理屈をこねる人は、本当は、何を言いたいのでしょうか。
私は、経験上、「ああでもない、こうでもない」と、「でも」が3回続くときは、この会話の内容が大事というよりは、「理屈をこねる」ことの方に意味があるらしいと考えます。
親身になってもらい、話が行ったり来たりするのに、逐一つきあってもらえるのって、ありがたいことですよね。「ああでもない」「こうでもない」と理屈をこねる様子は、さながら「この車のプラモじゃない!」「あの船のプラモでもない!」と欲しいものがわからずに、おもちゃ屋さんの前でダダをこねる子供のようでもあります。
あの時、「おもちゃが欲しい!」と言ったけれど、本当に欲しかったのは「おもちゃ」ではなくて、お母さんが自分のニーズに興味を持ってくれること、でしたね。もはやダダをこねることができなくなった「大人」は、甘えたい時には、「ダダ」ではなくて「理屈」をこねるんです。
「でも」が3回続いたら、相手は、ひょっとしたら「甘えたい」のかもしれないと思ってみるといいかもしれません。
「へ理屈」を論破したい「あなた」の気持ち
ところが、「ああでもない」「こうでもない」とへ理屈をこねられ始めると、ついアツくなって正論で論破したくなりませんか?
「コーンフレークは朝ごはんの憧れだから、コーンフレークだ」。
「いや、人生最後の食事にしてもいいなら、それはコーンフレークなはずはない」。
いずれも主観なのですが、理屈を持って断定すると「正論」のように聞こえるのがミソですね。「ああでもない」「こうでもない」へ理屈を、真実かどうかはさておき、「これが正しい!」ともっともらしい理屈で言い切ることで決着をつけたがるのは、世話好きな「自立」型の人が陥りそうなパターンです。
へ理屈をこねるのが、「甘えたい」ニーズを満たそうとする行動だとすれば、ニーズを感じたくない時に、私たちは、「正しさ」で自分も他人も、状況も、決めつけようとします。「わからない」のは、不安だし、無力な感じがするので、無理矢理でも「わかろう」とします。「正しさ」で論破することで、「わからない」という不安要素を潰したいのか、「正しさ」にこだわることで強くあろうとしませんか?
でも、「正しさ」では、「ああでもない」「こうでもない」とへ理屈をこねる人の「甘えたい」気持ちは拾えないので、イライラは募っても話は収まりません。
立場は違っても感じていることは同じ?
相手が「へ理屈」をこねるのにつきあっていると、何を言っても「イヤだ」「ダメだ」と反発され、どうしたら役に立てるのか「わからない」ので、最後には「もう、いい!」と匙を投げたくなります。お役に立てない無力感や悲しみを感じたくないので、相手から離れたくなるのです。「甘えてはいけない」という気持ちの強い人は、相手の態度に抑えきれない腹立たしさを感じるかもしれませんね。
でも、実は、まさにこの時こそが、相手の気持ちを理解するチャンスなのです。なぜならば、あなたが感じている「わからない」からお役に立てなくて、無力感でいっぱいで悲しい、という想いこそが、「ああでもない」「こうでもない」とダダをこねる代わりに、へ理屈をこねたくなった理由だからです。
「へ理屈をこねる」か「匙を投げる」か、とる態度の方向性は逆であっても、心の奥底で感じている感情は「同じ」なのですから、「心」の力学というのは面白いものです。
ここで、「どうしたらいいのかわからないと途方にくれるね」、とそんな、どうにもできない無力感を、「優しさ」で包んで分かち合えると、二人の関係性に新しい風が吹きそうです。
特に、「ああでもない」「こうでもない」とへ理屈をこねるパートナーのいらっしゃる方には、そんな「心」の力学に気づけるようになると、グッと親密になれますから、ぜひチャレンジしてみてくださいね。
(完)