私たちが自分のやり方や在り方で絶対に譲れないと頑張っているときは、そうではない誰かとの「競争」があります。
自分を押し通すことでその人に勝とうとしますが、その人を否定した罪悪感から問題を作ります。
「競争」を手放し、自分を明け渡すと新しい在り方のリーダーシップをとることができます。
「勝つ」と申し訳ないと思ってしまうココロ
「競争」する以上は「勝ちたい」と思います。これ、普通ですよね。
目標を達成しようとして、努力を続けて、頑張ったのですから、「勝つ」ととても嬉しいです。私たちは、勝負に「勝つ」と脳内に大量のドーパミンが分泌されます。
ドーパミンは、私たちが「すごーく幸せ」と感じるときに出る脳内物質です。中毒性があるので、大勝ちする喜びを覚えると、繰り返し、それを感じたいと願います。
ですから、勝ちグセをつけると、繰り返し「勝ちたい」と目標設定しては競争して「勝ち」をもぎ取ろうとします。「競争」の目的が「勝ち」になりやすいわけです。
ところが、何度も、何度も「勝ち」を重ね、他人を打ち負かし、「一人勝ち」状態になると、私たちは嬉しさも半分になります。
実際、勝てば、勝った途端に、次は負けるのではないかという不安が出てきます。負けがこんだ人に仕返しされるのではないかと怖くなります。
そして、勝ったはいいものの、負けた人に恨まれているかも、と思うとつい相手と距離をとりたくなります。こうなると、勝てば勝つほど孤独になりますね。
「勝っちゃってゴメンなさい」と罪悪感を感じると、今度は、相手が自分に勝ってくれないだろうかと願うようになります。そして、他人が自分に勝つと、悔しいけれどホッとする、ホッとするを通り越して、自分が勝つ以上に嬉しいと感じるようです。
このときに出る脳内物質の量は、自分が勝ったときに出る幸せ物質の量より多い、つまり、自分も「勝つ」けれど、他人も「勝つ」、という状況ができると、自分が「勝つ」よりも嬉しい、のです。
私たちは、自分も勝ちたいけれど、みんなにも勝ってもらいたいと思い、一人勝ちは寂しいし、「申し訳ない」と思うようです。昔から、大成功した事業家は、教会を建てたり、公共の施設や文化、芸術を支援するのに資金を提供してきました。
それは、大きく勝った罪悪感を購う気持ちからだったのか、成功をみんなと分かち合いたいからだったのか、とヨーロッパの荘厳な教会を見るにつけ、思いを巡らします。
「負け」るが「勝ち」とはいうけれど、、、。
スポーツのような合意されたルールのもとで勝負を競うのであれば、どれだけ「勝ち」を重ねても、罪悪感を抱くことはありません。
ところが私たちが日常生活で繰り広げる「競争」はもっと分かりにくい、当人すらも自分が競争していると気づかないようなものです。
例えば、お母さんがとてもセクシーな女性だったとします。子供は、お母さんの性的な魅力に触れると複雑な気持ちになることがあります。お母さんには性的なものと無縁な「聖母」でいてほしいという願いがあるからです。
娘が母親のセクシャリティを疎ましく思うと、自分の女性的な魅力を封印したいと(無意識的に)思います。少女っぽい服装や、振る舞い、話し方に執着し、かわいらしいのですが、自分が母親になってなお、夫婦関係がまるで父と娘の関係性になっていることがあります。
あるいは、まったく女性的なおしゃれに関心を示さず、恋愛にも尻込みする方もおられます。いずれの場合も、ご本人は気づかずに、「セクシーな母親」に対抗するように「聖母」になろうとすることで「どちらが素晴らしいか?」「どちらが愛されるべきか?」という「女性としてのあり方競争」をしかけているのです。
ところが、この「競争」は、「勝った」としても、娘は、母親を嫌い、否定したことに罪悪感をもつので、自分の中の、母親がもっていたのと同じ「大人の女性としての魅力」を発揮できない、場合によっては「男性との幸せなパートナーシプを持てない」ということになりかねません。
なので、それが彼女にとって本当に幸せな選択なのか、という疑問が残ります。
逆に、この「競争」に負けると、「母親といえど大人の女性である」ことを受け入れなければならず、娘は、「お母さんは聖母ではない」という怒りや悲しみ、コンプレックスや寂しさを感じることになりますが、自分もまた「大人の女性」としてセクシーな魅力を発揮することができるようになります。
あくまでも、ご本人の人生の選択ですが、「負け」ることでパートナーシップをもっと楽しめるかもしれない、「その方が幸せかも」というのが心理的な「競争」のオチなのです。
「負ける」というリーダーシップ
心理的に「競争に負ける」というのは、相手の言い分、やり方、あり方に、全面的に降伏し、相手に自分を委ねることを言います。交渉術のように、お互いにメリットがあるようにちょっとずつ譲るということではなく、相手を100%許して、相手の全てを「受け入れる」ことを意味します。
上の母親と娘の例で言えば、母親のあり方を全面的に許して、受け入れることで、自分の中の女性としてのセクシャリティも許され、解放されるのです。それは、自分のこれまでの生き方、あり方を一旦手放すことになるので、最初はその敗北感でとてもみじめな気持ちになります。
でも、これまでの「私」というアイデンティティが溶けてなくなったあとに、生まれ変わった「私」は、大人の女性のセクシャリティも、少女の可愛らしさの両面をもった豊かな魅力をもつようになります。
「どちらか」ではなく、「どちらもちょっとずつ」でもなく、どちらがいいか悪いかの「競争」を超えて、「どちらも含んだ新しいもの」(融合)を創り出そうとするならば、どちらかが、先に、「相手」を全面的に「信頼」して、「自分」を明け渡すことになります。
そのみじめさを引き受けて、「負ける」ことがリーダーシップをとることになるのです。