自分の選択に自信が持てないとき
なかなか選択できない場合は選択に自信が持てず、何よりもその結果の成否に執着している場合です。
また、余りにも多くの選択肢がある場合も、選択そのものを諦めてしまうことがあるようです。
選択は私たちが持っている大いなる力で、自分で選択していることを自覚するだけで、自分に選ぶ権利があることを自覚させ、私たちを勇気づけてくれます。
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私たちは、様々なシチュエーションで選択を行っています。無意識的な選択もあれば、意志をもって選択をする場合もあります。
ところが、意志を持って選択しようとしてもなかなか決意できない場合もあるのではないでしょうか。
私ごとですが、昼時に食事を摂るために入るラーメン屋やカレー店では何を食べるかすぐに決められるのですが、定食屋ではなかなか決めることができません。
メニューを見ていると「あれも食べたい、これも食べたい」となってしまい、こんがらがって何を注文すればいいのかわからなくなってしまうのです。
そもそも、食いしん坊の私は1回の食事を大切にしていますので、「失敗した」と思う選択はしたくないのです。
メニューのバリエーションの比較的少ないラーメン屋やカレー店では、基本的にその店に入ってしまえば当たるなら全て当たり、外れるなら全て外れることが多く、仮に失敗感を抱いたとしてもそれは選択したメニューによるものではなく、お店選びに帰結されます。
ところが、定食屋ではメニューが多く、選んだ料理が口に合わない場合は、失敗感、食事の機会の喪失感が私を襲い、「あれにしておけばよかった」と後を引くのです。
つまり、私が定食屋で何を食べるかなかなか選べない理由は、失敗感を感じたくないこと、機会の喪失感を感じたくないこと、選択に自信が持てないこと、そして何よりも1回の食事の成否に執着をしていることなのです。
行動経済学の研究で、お店に数種類のジャムを置いて試食販売した場合と、数十種類のジャムを置いて試食販売した場合、どちらが多く売れるかという実験をした結果があります。
数十種類のジャムを置いた場合の方がいろいろ選べるので多くのジャムが売れるのではないかと思いがちですが、実験結果はさにあらず、数種類のジャムしかない場合の方が多く売れたのだそうです。
選択肢が多い場合、人は選べなくなってしまい、選択を諦めてしまうこともあるようです。
昔、水の味覚評価実験を行ったことがあり、「どちらがおいしいと感じるか」を被験者に選択してもらったことがあります。
市販のペットボトルに入った軟水や硬水を数種類取り揃え、被験者も実験者もどれがどれだかわからない状態で試飲してもらう“二重盲検法”で比較してもらったのですが、その際には一対比較(AとBの2種類で比較することを繰り返す方法)を行いました。
その結果、統計処理をすると統計的に意味のある“有意差”を持って数種類の水の中から美味しい水を選ぶことができました。多くの選択肢がある場合、整理して考える方法として、2つを1組と考えトーナメント形式で選択していくという方法もあるかもしれません。
その際、水の評価では「おいしい」という明確な尺度があったのですが、私たちが何かを選択するときに問われるのは、その評価尺度や基準ではないかと思います。
これが自分の中で明確になっていないと、トーナメント方式でもうまく選択できないのではないかと思います。
すなわち、自分にとって望ましい選択とは何か、選択の未来にあるものは何かを明確にすることこそが、選択の第一歩であり、この点が明確になれば選択という行動は、もう半分以上済んだことになるのではないでしょうか。
様々な状況下で“選択肢がない”というご相談を受けることがありますが、それは「今は選択したくない」ということではないかと私は思います。
そしてそれは、実は「選択しない」という選択をしていることにほかなりません。さらに言えば、状況に身を任せてみるという選択なのではないかと思います。
そのうちに事態が好転する場合もあるでしょうし、何かを選択してみる気になるかもしれません。
私たち人間は、ずっと同じ場所で立ち止まっていることは苦手な生物です。やがて、動き出すために何らかの選択をするものです。
ちょっとイメージしてもらいたいのですが、目的地に向かっていると、道が2つに分かれていたとします。どちらに行けば目的地に到着できるのかわかりません。
しかし、その分かれ道に私たちは永久に立っているでしょうか?どちらか一方に進むか、引き返すかいずれかの決断をして行動を起こすのではないでしょうか。
私たちが意識したいのは、選択は私たち人間に与えられた大いなる力であるということです。
どんな状況であっても、どんな選択であっても自分自身で“それ”を選択しているのです。
たとえ、誰かから言われて選択させられたように感じることがあっても、それはその誰かに従うことを選択したということなのです。
自分で選択していることを自覚するだけで、自分に選ぶ権利があることを自覚させ、私たちを勇気づけてくれます。
(完)