みなさんがリラックスしたい時間に飲みたいものは何ですか?
日本茶、紅茶、ハーブティーも良いですね。
コーラや炭酸水が好きな人もいるかもしれません。
私はそういう時には珈琲が飲みたくなります。
あの香りは他にないですし、のんびりと飲んでいて気分が緩んでくると、ふとブログ記事や心理学講座のアイデアが浮かんでくることもよくあります。
なので、以前はしょっちゅうお気に入りの喫茶店やカフェにノートパソコンを持って出かけてましたが、最近は新型コロナ感染症のこともあって、あまり行けていないのがちょっとだけ残念です。
その分、最近は珈琲豆を買ってきて自宅で淹れることが増えました。
手軽に色んな種類の珈琲豆を飲み比べたりできるのが、自分で淹れることのメリットなんですよね。
豆の産地はもちろん、どのくらい強く火を入れたかという焙煎の深さ、焙煎をする職人さんによっても味が違うのが分かりますし、使う器具でも違いがずいぶんと出てくるのも面白いです。
私が毎日使っているのがペーパードリップと言って、よく喫茶店で見る三角錐の器具に紙のフィルターをセットして、細かく挽いた珈琲豆にお湯を少しずつ注いで淹れる方法です。
朝と夕方に入れるのが日課になっているのですが、面白いのが、同じ豆を使い同じお湯の温度で淹れているのに、毎日ちょっとずつ味わいが違うところ。
気温や湿度、体調などの要因が重なっているわけですから、まったく同じにならないのも当たり前なんでしょうけど。
そう考えると喫茶店で飲む珈琲がほとんど味が変わらないのは、プロの磨き上げた感覚で微調整しているということですよね。ちょっと繊細過ぎて、私には想像もできない世界に思えます。
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じつはここまでが前フリで、今からが本題だったりします。
珈琲というと思い出す話があるんです。
もう10年近く前のこと、ちょうど私が自分で珈琲を淹れるようになってしばらく経った頃のことです。
もともとこだわりが強くて、興味を持ったものは突き詰めたい性格なこともあって、自分の腕を磨くために美味しいと言われている喫茶店やカフェへ通っていたんです。
しばらく通っていると、店員さんやマスターと世間話をするようになり、中には親切にも珈琲の淹れ方を丁寧に教えてくれる人もいました。
ある時、私は当時よく通っていた喫茶店のマスターにこんなことを聞いてみたんです。
「どうしたら雑味がないクリアな味わいに淹れられるんですか?」
(ちなみに雑味とは珈琲のアクのようなものです。抽出しすぎると美味しくない苦みやエグ味が出てしまうのです。)
その当時の私は、できるだけすっきりとクリアな味が最高なんだと考えて、そんな質問をしてみたのです。
すると返ってきたのは意外な答えでした。
「近藤さん。雑味ってね、適度に入ってないと美味しくないんですよ。」
「もちろん入れすぎるとマズくなるけど、まったく雑味の無い珈琲もマズいです。」
マスターは、私がどうしてなのかを聞いてみようと口にする前に
「今から雑味をまったく入れずに作ってみますね。」
そう言って、しばらくして出された珈琲を飲んでみると本当に美味しくなかったんです。
ぼんやりとした味わいで、珈琲っぽい風味のするお湯とでも言いたくなるものでした。
「雑味って適度に入ってないと味の輪郭が分からないし、豆の個性が出ないんですよ。」
そんなことを言いながら、次にいつも通りに淹れたものを出してくれました。
するとハッキリ分かるんですよね。先に飲んだものとは比べ物にならないくらい、味の輪郭がくっきりと舌の上に描かれるのが。
例えるなら、ある豆は平屋建ての家のようにシンプルなんだけど奥行きの深さを感じる味、別の豆は3階建ての家のように立体的で味の要素が積み重なって複雑な風味を組み上げている。というくらい違いが感じられたんです。
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それ以来、珈琲の淹れ方、味わい方が変わったのですが、あらためて思い返すと、このことは私たちの個性にも当てはまるような気がします。
子供の頃に誰かに叱られたり、周りからダメ出しをされた部分があった時、
「これを出したから叱られたんだ。」
「人から愛されるためには直さないといけない。」
そう感じた分だけ、私たちは良い子になり、聞き分けの良い人になってしまい、どこか自分を抑えて隠しながら生きてしまうことがあります。
たとえば、女の子が活発に遊んでいて、「女の子らしくしなさい」「おてんば」という周りの言葉に恥ずかしさを感じたことで、その要素を隠してしまったら、積極性やオープンさを封印してしまうなんてことも起こり得ます。
ありのままの自分でいるのはマズい、そう自己嫌悪したことで、自分ではない自分になろうと頑張ってしまうことを、心理学では『補償行為』と言います。
その結果、他人の目を気にして、他人の評価軸で自分の行動を選ぶようになると、従順で人畜無害な人にはなれるでしょうが、「自分らしさ」は誰からも見えなくなってしまうかもしれません。
その分、そのままの自分を大切にしようという自己愛も傷ついてしまうんです。
でも本当は「ダメなところ」「弱い部分」は、周りが力を発揮することで助けてもらえる「愛される私」でもあるはず。
誰かにダメだと言われても、コンプレックスに感じるところがあっても、攻撃するのではなく「これも自分なんだよね」と受け入れられるくらいの自己愛を育みたいですね。
よく「アクが強い」と言われる人ほど、意外と嫌われるよりも周りから愛されていると感じることはないでしょうか?
今なら「クセが凄い!」とでも言った方がお馴染みでしょうか。
まさに珈琲で言う雑味(苦みやエグみ)が、その人らしさとして愛されているからなんですよね。
私たちにとっての雑味とは、ぼんやりしがちな個性をキリッと引き締めて、「自分らしさ」という輪郭を描きだしてくれる大切な要素なのかもしれませんね。
人としての甘味も旨味も、苦みもエグみもある。
自分の中にどんな自分がいても良い。
「すべての私がいて私なんだ」と、まるっと自分を受け入れられたら、「どんな私も愛される」最強の自分になれてしまいそうです。